筆 者はこれまで、キェルケゴール・北欧神話・ウプサラ学派の価値ニヒリスムの三者を主要な研究対象としてきたが、それを基盤としてさらに筆者の関心は、現代 世界の抱える緊急の思想的課題 - 宗教・医療・環境の問題 - を解決する方向を、北欧思想圏の哲学的思惟を通して探るという目論見へ進んでいった。そ して、極めて貧しい試論には留まるが、それぞれの対象・主題について研究成果を発表することができた。しかし、現在筆者の願望は、従来の考察を一層ラディ カルに深めるとともに、そこからさらに浮かび上がってくる北欧固有の諸問題に対して総合的な検討を加え、その成果を体系的に「北欧学」という新たな学問に 結実させたいという方向に向かっている。筆者に残された時間は多くはないが、それへの積極的な挑戦が、ライフワークの主たる部分を占めることになる。
この場では、筆者がこれまで上梓した著作と翻訳を、研究業績として紹介すると同時に、続いて筆者がそれぞれの機会に発表してきた比較的短い論考を用いて、 必ずしも全体が体系的に組織されているわけではないが、現在筆者の念頭にあるかぎりでの「北欧学」なるものの構想内容と、想定される具体的な主題につい て、述べてみたいと思う。

2009/12/27

定年雑記

        「流れ木のごと」
  [Ⅰ]
 時期的に新設大学が続々誕生していた背景もあったので、就職の厳しい現在と違って、博士課程修了後直ちに地方大学に倫理学・ドイツ語担当の専任講師として就職でき、しかも毎日の出勤を要せず、「研究日」という名の休日に恵まれた職場ではあったが、それでも遠距離から新幹線や特急を使っての通勤は大きな時間的ロスであったし、さらに通勤費捻出のために多くの非常勤のコマをこなさなければならない苦労は、それなりに大変であった。週に十六コマ以上も担当して東奔西走できたのも、若さの特権であったろう。八年後首都圏の大学に移ってからもオブリゲーションのコマ数が多かったために、その意味での忙しさにはさして変化はなかった。週の担当コマ数が十を割ったのは、定年を迎える年の一年間のみであつた。また赴任と同時に新しい住居を郊外に求めたために、専任校・非常勤先まで毎週少なくとも四日以上、片道通勤時間二時間乃至二時間半、しかも少なくとも週三日は睡眠時間三乃至四時間といった生活を、ほぼ三〇余年間も続ける仕儀にもなってしまった。そういった事情で、職業柄確かに多くの自由時間に与る恩恵に浴しはしたものの、それでもこんな生活が四十年間近く続いてみると、さすがに心身ともに疲労感激しく、もはや外に出て人前で喋る気力も失せてしまった結果、古希の定年退職後は専ら引篭もり生活が続いている。そういうわけで、退職してからの二年間の生活の大筋を、小学生時代の夏休み日記帳風に書けば、「毎日勉強し、犬と散歩して、ときどきは庭仕事を手伝い、カラオケに行きました」とをいうわずか三六文字で事足りることになる。そこで、元の職場の機関誌『政経フォーラム』編集部の求めに応じてOBとしての近況を語るということになると、結局この三六文字の内容を若干引き伸ばしながら解説するという、何とも無味乾燥なものになってしまうが、お許し頂きたいと思う。もっとも、このブログに書き込むに際しては、元の原稿にかなり加筆したので、提出した近況報告とはかなり異ったものになっている。

  [Ⅱ]
  引篭もりは疲労も一つの理由ではあったが、実は自らの怠惰・怠慢の証明にもなりかねないのであまり表立っては口外できる話しではないものの、そこにはもっと大きな隠れた理由があった。というのも、在職中にとっくに片付けておくべきだった翻訳の仕事を、いろんな事情で退職後に残してしまい、これを可及的速やかに完了しなければならないという切羽詰った状況に追い込まれていたからある。定年直後から一年半をほとんどこの仕事に費やした結果、幸い訳了、注作成の作業も終えて発行元に渡した。2010年早々に刊行との最終報告を受けている。
すでに故人であるが、恩師が企画したデンマーク語からの直訳による『原典訳記念版キェルケゴール著作全集』十五巻の内、恩師担当の『不安の概念』とわたしの担当したキェルケゴールの二つの作品(『畏れとおののき』『受取り直し』)の訳を収録した第三巻が、わたしのルーズさゆえに最後の発刊になってしまったわけであるが、周知のように「古典」と言われる文献の翻訳については固有の煩雑さがある。キェルケゴールというデンマークの思想家の場合も、初版を別にしても本国では現在最新の知見に基く完全新版とも言うべき第四版が刊行中であり、さらに個人的に編纂・発行した各種の刊本も存在する上に、いろんな他言語による翻訳がある。そのために、日本語訳に際しては、基本的には最新版原典を中心として数種類の刊本に対する目配りが不可欠なのと、翻訳作業の現場ではやはりどうしても他言語訳を参照せざるをえないのが実情である。こういった点に配慮しながら、何とかキェルケゴールの上記二つの作品の翻訳を終えるとともに、原典と他言語訳に付された七種類の注釈その他多くの資料を用いて註解作業を行なった結果、この註解の部分が本文訳の半分以上の量になってしまったものの、わたしの作成したこの註解を参考にしてもらえれば、二作品を読むのに原典・他言語訳本の何れの注釈にも頼らなくて済むところまで漕ぎつけられたと考えている。なお上記著作全集第十巻には、若手の研究者とわたしの共訳で、キェルケゴールの大著『愛の業』が収録されている。
こうして在職中からの最大の積み残しはやっと片付けたものの、実はまだ果たしていない共訳の約束が三つもあり、自業自得の結果とはいえ、この約束を果たさないかぎり本来の自分の著作活動に立ち帰れず、先行き有効時間が極めて限られているわたしにしてみれば、焦燥感は強いのであるが、だからといって翻訳・著作活動とも決して粗雑な仕事に堕すことのないように全身全霊を傾けるつもりでいる。たとえどのように貧しい研究成果ではあっても、手っ取り早く安っぽい読み物に纏める気持などはさらさらなく、あくまで本格的な論稿に仕上げることを念願としている。とはいえそのための財政的負担を考えるとき、暗澹たる思いに沈まざるをえないのは致し方ないものの、正直筆先が鈍るのは避けようもないのである。 かつて思想関係のある出版社の編集長から聴かされた言葉として、営業上は内容・形式ともに儲かるタイプの本も発行せざるをえないが、出版社として真に刊行したいのは、「巨岩を鑿でえぐるような研究成果だ」というのがある。以来わたしの脳裏にはこの言葉が強いトラウマとして残り、同時にまた仕事上の大きな励み・指針としても生き続けている。もっとも、これまで評価も売れる見込みも立たないままに上梓した拙著が、編集長の要請を満たしているという自信は皆無ながら、少なくともわたしなりにそれに答えようとした懸命な試みの一端だということは、躊躇なく言えると思う。

  [Ⅲ]
  老人特有の発言になることをお許し頂きたい。昨今都会の中高年層の間では墓地確保が切実な関心事になっているとのことであるが、反面ヒット曲「千の風にのって」の冒頭で、「私の墓の前で泣かないで下さい、そこに私はいません」と唄われたために、墓地への関心が薄くなったというある寺の住職の歎きを、某紙の投書欄で読んだことがある。「墓に私はいません」、この感性に実はわたしも大いに感動し、心から共感するものである。正直に告白すれば、この曲のメロディーと詩に初めて接した時、わたしが包まれた名状し難い透明な清澄感・開放感は、キェルケゴールの主体的真理観に躓いて久しく研究の暗闇の中を彷徨っていた際に、スウェーデン・ウプサラ学派の創設者アクセル・ヘーゲルストレームの掲げる「subjectivityは真でもなければ非真理でもなく、およそ真偽判断の対象たらず」という「価値ニヒリスム」のテーゼに遭遇した時の激震に連なるものがある。わたしは「不肖の弟子」と名乗ることすら憚られ、文字通り「落ちこぼれ」でしかないのであるが、学生時代から畏敬してやまない三人の恩師は、すでに故人ながら何れも偉大な宗教哲学者・研究者として国際的に尊崇を集めている碩学である。しかし恩師ののように宗教を「ニヒリスム克服」の手段として把握するのではなく、まさに反極的に「ニヒリスムそのものの最深の現象」として受け留め、したがって宗教からの脱却こそニヒリスム超克の道と解しつつ、なかんずく伝統的な有神論的宗教哲学の解体を本来の宗教哲学固有の課題と見なすウプサラ学派の「価値ニヒリスム」の立場に深い共感を寄せるわたしごときは、不肖の弟子・落ちこぼれどころかむしろ「忘恩の徒」と呼ばれて然るべきであろうが、にもかかわらず「千の風になって」の詩想と「価値ニヒリスム」の思想との間に、心情的にも理論的にも深い連関を発見し、両者の内に既成宗教のさまざまなくびきからの解放による人間の内在的な自由の回復への激しい要請を看取せざるをえないのである。なお、わたしのウプサラ学派の価値ニヒリスム理解については、ブログの「研究業績」欄に記載した拙著を参照して戴ければ幸いである。
  しかし、このように主張したからといって、日常の慣習的な場面でわたしが伝統破壊的行動を専らにしているというわけではない。死者の「霊」にとって宗派的・階層的区別のごときは所詮真の慰霊の念とは無縁の世俗的・人為的捏造に過ぎないと見なすわたしとしては、このような自らの「信」に基づいて、わが家の同じ一つの仏壇で宗派・宗教の異なる三つの位牌をまつるという「非常識」を犯してはいるが、仏壇の前での毎朝の心を込めた勤行はやむをえない場合以外欠かしたことはないし、時節ごとに遠隔地の郷里に眠る祖霊への年四回の墓参も怠ったことはない。団塊の世代をはるかに超え出た年齢のわたしではあるが、イデオロギー的には「千の風になって」の反極に位置するものの、名曲「吾亦紅」に涙する感性も決して失ってはいないつもりである。ただ近々必要となるであろうわたし自身の「墓」をどうするかについては、既成宗教の方式からの脱却はまさに願うところであるが、難問は、京都の大寺院の門前町で育ち、すでに自らの生前墓も建立し、海外では異色の宗教画家として注目されている家内の説得である(リンク先「尾崎邦恵ギャラリー」を参照されたい)。

  [Ⅳ]
  もっとも自分の「墓」ということでは、わたしとしては独自の考え方を持っている。研究者にとって本質的な意味で「墓」たりうるのは著作のみであり、著作以外に真に研究者の魂を宿す墓たりうるものはないと確信しているからである。そして仮に主著に当るものが墓地中央に敷設されるメインの「墓石」だとすれば、他の著作はいわばそれを取り囲む各種の「墓標」と言いうるかもしれない。だからこのような意味での墓石・墓標というのは、本人の死亡後肉親等によって奉献されるモニュメントのことではなく、いわば生前墓のように研究者本人が自分自身の生霊に捧げるために建立する死亡証明ならぬまさに存在証明のごときものと言えるかもしれない。少なくともわたしは、まことに拙いものではあるが、これまで上梓した自分の著作類についてはそのようなものと解している。問題なのは、真に中央の墓石と呼ぶべき業績が果たしてこれまでの著作活動の中で産出できているかどうかということであり、また残された人生において果たして何本の墓標を建立しうるかということである。何れもが疑問だらけで、心細さも半端ではないが、一応予定している研究・著作計画を若干なりとも前進させることによって、できうればより高質の墓石と新たな墓標の建立に繋げたいと考えている。さらに傲慢不遜な言い方をすれば、他人の評価などに意に介することなく、信じる道を真っ直ぐに突き進んで自分自身として納得しうるような仕方で墓石・墓標の創建に取り組むことが、そのまま自分の生き様であり、また死に様だと考えている。その際すべての墓石・墓標に刻み込む共通の碑文は、「(神話的なものをも含む)宗教的なものとは何か」、そして「北欧的なものとは何か」という二つの問いであって、一見直接には結びつきそうにもない両者を同じ研究基盤の上で総合統一することによって、そこからオリジナルな結論を導き出すことが、わたしの目指す独自な方向性である。

  [Ⅴ]
   したがって何とも戯けた笑い話になってしまうが、わたしの言う墓標の建立には墓標の主の健康が第一条件になる。幸いわたしは現在のところ小康を得ているが、これに大きく役立っていると思われるのが、三〇年近く基本的に毎日続けている朝夕四十分づつの愛犬との散歩である。わが家は東京方面から九十九里方面にぬけるバイパスが住宅地の真ん中を走っている地域にあるが、不埒な無責任行為に走るのにはうってつけの場所なのか、四月・九月の転勤・移動の時期には捨てられ、放置されたペットに出会う率が高くなる。そしてかく言うわたしの愛犬第一号も、成犬で捨てられて捕獲される寸前に危機一髪わが家に逃げ込んできたコリー犬である。家族の一員になった十二年目に白内障が進み、耳も遠くなっていた矢先ついに天敵フィラリアの犠牲になってしまったが、人間の寿命では優に百二十歳を超えていたはずである。それから間もなく、ゴミ・ステーションから拾われてきたハスキーの雑種の子犬が愛犬第二号になった。この子犬もすでに十三年が経つので、犬年齢では百歳以上の高齢になっているが、元気に飼主の健康を守ってくれている。ただ最近頬の一部に老犬特有の皮膚病の一種を発症し、完治は難しいとの獣医の宣告で、健康を守ってもらっている飼い主としては心を痛めている次第である。

  [Ⅵ]
  机に座ることと散歩は基本的に毎日のルーチンワークあるが、時にはどうしても果たさなければならないオブリゲーションが庭仕事である。日頃は専ら家内に任せっきりではあるが、広さが百坪(330平米)以上あるので、ほぼ定期的にわたしも駆り出され、これが相当な労働量になる。確かにたっぷり植わった庭木の緑と風情は、心身や眼の疲労を癒してくれるのにはうってつけであり、中秋の月見の宴を豊かに連想させるススキの穂の見事さに感銘して、その大株の根っこを引き抜く作業をついつい中止して穂を残すといった、加賀の千代女的風流心に誘われる場合もないわけではない。また家を挟んで庭の反対側には五本の桜の大木と二十数本の椎の大木があり、四月にはさながら家全体が花吹雪に覆われるが、落葉の季節には大変な量の枯葉とどんぐりの実の片付けに追われるが、しかし大きな竹箒でそれらをゆっくりと山盛りに集めてゆく趣きは、生まれ郷里の山里の思い出とも重なって決して悪いものではない。また新緑から夏場にかけての雑草の成長ふりは物凄く、その駆除は大変な苦労ではあるが、こんなふうに雑草と格闘することができるのも、確かに定年生活の有難さというものであろうと実感している。さらにこの時期わが家の桜と椎の木立には一羽の鶯が棲み付いているらしく、一日中聞かせてくれている見事な囀りに改めてじっくり耳を傾けることができるのも、定年後初めてである。真夏には深夜にも及ぶセミの合唱がすさまじい命の迸りを感じさせてくれるが、これも田舎独特の季節感ではある。木立の間から霞んで見える東京湾の遠景もきれいで、またわが家から歩いて十分のJR駅に向かう途中には小さな神社があり、この神社の脇を下っている坂道からは東京湾の彼方に遠く聳える富士山の見事なシルエットも見られ、三十余年間にわたる通勤にはいささか無理な仕方で体力と時間を使いはしたが、わたしなりに自然の風情豊かなこの環境が気に入っている。

  [Ⅶ]
  中年になって無熱肺炎のため禁煙し酒は生来の下戸とくれぱ、わたしの場合恥ずかしながら趣味として残るのはわずかにカラオケぐらいのもであるが、これには少年期のある苦い思い出が繋がっていると思われる。
  わたしは中学・高校と神道系の学校に学んだが、終戦後間もない中学二年二学期の音楽の成績に[1]という落第評価をもらったことがある。自分が特別悪餓鬼だという意識もなかったので、この成績はやはりショックではあったが、この酷評に対して思い至る唯一の理由としては、音楽鑑賞の時間に聴いたクラシック(どういう作品だったかはまったく記憶にない)について書いた、「神々が去ってゆくのを人々が歓呼しながら見送っている」といった感想文の内容が、学校の設立精神でもある神道宗教の熱心な信者であった音楽教師の逆鱗に触れたのではないかということしか思い浮かばないのである。恐らく前夜に見た備中神楽の冒頭に登場して天孫降臨の露払いの役割を演じる二人の猿田彦命の勇壮な荒舞にすっかり魅せられた感激の余韻がこういう感想文になったと思われるのであるが、しかし今にして思えば音楽教師は、神々の神話世界に対する小童の単純幼稚な感動の吐露の中に、ひょとしたら日本神話や神道思想からすれば異質で危険極まりない北欧神話的な「神々のこの世からの退去」と、それに対する不埒極まる喜びの表現といった匂いを嗅ぎ取って憤慨したのでは、というのが正直な感想である。
  とはいえもともと終戦直後の田舎育ちで高尚な外国音楽に接する機会も才能も欠落していたわたしにとっては、この強烈でショッキングな体験は、成人になつてもクラシック音楽というものに対する一種の「恐怖感」「嫌悪感」というトラウマとしても残り続け、結局音楽趣味も叙情演歌中心のカラオケ一本に絞られることになってしまったわけである。とはいえこのような否定的な音楽体験が「神話的なもの」への関心を保持する上で大いに役立ち、後年北欧神話を主題とした博士論文を完成するきっかけとなった最初の動機は、この悲惨な体験にまで立ち返ることができるかもしれない。もっとも音楽に対する歪んだ傾向はこれに留まらない。
  不惑を過ぎながら研究の方向に悩んで、哲学のいわゆるオーソドックスな領域とテーマの追究を目指すべきか、それとも敢えて北欧精神史・思想史研究といったマイナーな分野に重点を置くべきか迷っていた時に、高名なマルクス研究者から「北欧の思想など所詮はゲテモノではないのか」と言われて、目から鱗が落ちるような感じで、ようやくこのマイナーなゲテモノの研究に専心する決心がついたが、このように研究主題の選択のみならず、ペット飼育の際にすら頭を覗かす、顧みられないもの・見捨てられたものに変に執着するというわたしの異端的な気質が、ひょっとすれば最も露骨に現れるのがカラオケに行った時かもしれないのである。通常なら一流歌手によつて歌われている「はやり」歌を唄うのであろうが、わたしの場合いささか違っていて、敢えて作詞者・作曲者とも知名度が低く、歌手にいたってはまったく無名で、カラオケ・ナンバーにもせいぜい一・二曲しか載っていない、時にはすでに廃盤になっているような曲を、その場でメロディーを覚えて唄うという一風変った、しかしわたしにしてみればこれに勝る醍醐味はないのではないかと思われる楽しみ方である。そういうふうにして自分流にマスターした無名曲はかなりの数にのぼる。もっともこのような私流のカラオケ道に反し、評判曲「千の風になって」とその理念とは対立する評判曲「吾亦紅」及び「群青」の三曲は例外的に愛唱している。
  最近唄い出したのが、夕刻愛犬との散歩の途中時々遭遇する東京湾を越えて富士山の彼方に沈んでゆく夕陽の鮮烈な印象に引かれてピック・アップした、多数存在する「落日」という曲の中の一つである。ただしこの作品の作詞・作曲はわたしにとっては例外的に現役で活躍中の「大家」の手になるもので、歌手は華やかな活動こそ目にしないものの、いわゆる玄人好みの知る人ぞ知る男性歌手である。「ふるさと遠く 海の落日、 渚を行けば 流離の愁い、名も上げず 身も立たず、 流れ木のごと 朽ちるものあり・・・・・」というのが、冒頭の歌詞である。この歌詞に引かれる理由は、何と幼稚で安っぽい感傷かと軽蔑されようが、歌詞内容がついつい自分の人生の来し方行く末に重ね合わさって、痛切にわが身を振り返らせてくれるからである。はるか故郷の地を捨てて晩年を迎えながら、名も上げられず、身も立てられないわが身の腑甲斐なさに、改めて情けない思いを掻き立てられるのである。とはいえ自分がどんな墓標を何本完成しようと、それらが所詮「流れ木」にすぎず、いずれ水中に沈んで朽ち果てるのは必然の定めと覚悟しているから、「流離の愁い」といったロマンティックな洒落た気分はそこにはない。それでよし、悔いるところなし、というのが率直な気持ちではある。ニーチェの「ツァラツストラ」の言葉をもじって言えば、「かくの如きが人生か、さらばいま暫し」ということになる。ニーチェのように「いま一度」は必要としない。一回限りの「今生」のみで十分である。ただ朽ち果てるその時までに、「流れ木」に刻んだ小さな経文に目を留めてくれる人が僅かでも現われてくれればというのが、せめてもの願いではあるが。
  そうはいっても、庭の小さな書庫に入って、墓標作成用の、だが未使用の膨大な資料を前にする度に痛感せざるをえないのは、これまで為すべきことを為してこなかったおのれの無力と怠慢のつけの大きさである。そして、わたしのかかえる「ゲテモノ」としての専門領域のある種の特殊性に伴う困難さがあるとはいえ、今後これらの資料をわたしに代わって利用しつつ、思想史・精神史を中核とした「北欧学」の確立というわたしのライフワークの主要目標の一つをさらに大きく飛躍・前進させてくれる後継者を養成できなかったことは、やはり残念無念としか言いようがないのであるが、しかしいまさらどうしようもなく、今後も老残の身に鞭を入れつつ、ひとりこの新たな学の開拓と確立を目指して孤独な道を歩まざるをえないことを覚悟している。
  大学教師になってからの三八年間の生活を振り返るとき、苦い体験も含めて、与えることよりも与えられることの方がいかに多かったかに思い至らざるをえない。長い年月の間恵まれた環境の中で教育・研究の場を享受しえた幸運を思うにつけ、関係機関に対しいま改めて衷心より感謝するものである。筆者に残された課題は、この感恩の念を残された時間を通して自らの研究のさらなる進捗へと結びつけることであると確信している。
  (明治大学政治経済学部 『政経フォーラム』 Nr.25, 2008.03)