筆 者はこれまで、キェルケゴール・北欧神話・ウプサラ学派の価値ニヒリスムの三者を主要な研究対象としてきたが、それを基盤としてさらに筆者の関心は、現代 世界の抱える緊急の思想的課題 - 宗教・医療・環境の問題 - を解決する方向を、北欧思想圏の哲学的思惟を通して探るという目論見へ進んでいった。そ して、極めて貧しい試論には留まるが、それぞれの対象・主題について研究成果を発表することができた。しかし、現在筆者の願望は、従来の考察を一層ラディ カルに深めるとともに、そこからさらに浮かび上がってくる北欧固有の諸問題に対して総合的な検討を加え、その成果を体系的に「北欧学」という新たな学問に 結実させたいという方向に向かっている。筆者に残された時間は多くはないが、それへの積極的な挑戦が、ライフワークの主たる部分を占めることになる。
この場では、筆者がこれまで上梓した著作と翻訳を、研究業績として紹介すると同時に、続いて筆者がそれぞれの機会に発表してきた比較的短い論考を用いて、 必ずしも全体が体系的に組織されているわけではないが、現在筆者の念頭にあるかぎりでの「北欧学」なるものの構想内容と、想定される具体的な主題につい て、述べてみたいと思う。

2009/12/29

「北欧学の主題」-[Ⅲ]スウェーデンの政治哲学(2)

  ヘルベルト・ティングステーンのデモクラシー論
    一「イデオロギーの死」から「超イデオロギー」へ一


  1.ティングステーンー「逆説的な」問い・人・業績ー

  1998年7月13日の参議院選挙が58.8パーセントという予想外に高い投票率を記録して自民党惨敗のニュースが流れたとき,筆者はちょうど本稿執筆のためスウェーデンの政治思想家ヘルベルト・ティングステーン(Herbert Tipgsten1869-1973)の著作に眼を通していたが,たま「たま彼の比較的初期の1937年の著作で,第二次世界大戦前のヨーロッパ諸国民の投票行動を,統計資料の比較政治学的研究を通して緻密に分析した著作『政治行動・選挙統計研究』の中に,彼の次のごとき興味深い所見を発見した。「代議員制度にとって最大多数の住民が選挙に参加するのが望ましいというのは,一般にデモクラシー諸国で好まれる古い考え方であるが,現在ではもはや論なく正しいものとしては受入れられない。別の関連では,非常に高い率の投票参加
が,ときには,デモクラシー制度の危機の兆候たる可能性や,この制度の機能を困難ならしめる可能性もあることが証明されよう」①。
  高い政治的参加がデモクラシーの危機的状況の兆候たりうる恐れがあるとしても,これによってティングステーンが「つねに」そうだと主張しているわけではないというのはB.O.ボストレームの指摘する通りであろう。「高い率の投票行為がデモクラシーの危機に基づく場合もありうる」②,ということにすぎないのである。だからといってそうである必要はないし,まして高度な政治参加自体がデモクラシーの危機であるわけでも,危機を引き起こすわけでもないのは当熱である。だが,それにしても前回95年の参院選の44.5パーセントを14パーセント上回る今回の高い投票率は,ティングステーンの論理に照らした場合,どのように解すべきであろうか?わが国デモクラシーの危機的状況を暗示するものなのだろうか?
  政治活動の高さがデモクラシーの危機の指標ともなりうるという主張も一見極めて逆説的であるが,このような背理的な見方の背後には,ティングステーンの「成功せるデモクラシー」(den lyckliga demokratien)は「イデオロギーの死」(ideologiernas dod)をもたらし,「脱イデオロギー」(videologi)の営為を媒介として「超イデオロギー」(6verideologi)の次元を構築するという独自の尖鋭的な主張が控えている。言うまでもなく,この主張はティングステーンの政治哲学的根本思想の一端をなすものであり,なかんずく彼のデモクラシー論の特質を最も鮮明に披歴するものであるσ
  本稿は,このような「イデオロギーの死」「超イデオロギー」といったティン・グステーン固有のタームの分析・検討を通して,彼のデモクラシー論の独自性を明らかにすることである。なお,このテーマに関してはもちろん,ティングステーンの全体像についても,まとまった研究は現在のところ本邦には現れていないようである。
  本題に入る前に,H.ティングステーンの人と業績について若干言及しておきたい。
  政治学界に身を置いていない筆者には,ティングステーンが政治学者・政治思想家として国際的にどのように評価され,位置づけられているかは必ずしも'分明ではないが,存命中彼が祖国スウェーデンにおいて「偉大な知識人」として不動の地位を獲得し,現在においてもなお隠然たる影響力を行使していることは疑うべくもない事実である。彼は1935年から46年までストックホルム大学政治学教授,続いて46年から60年まではスウェーデンの最も重要な日刊新聞の一つ,『ダーゲンス・ニューヘテル』(Dagens Nyheter)の編集長を勤めるかたわら,生涯にわたって多彩な著作活動を展開している。筆者の手元にある資料によれば③,自伝を含む31冊余の著作と上記『ダーゲンス・ニューヘテル』紙及び各種の専門誌を中心に約80編の論文を発表している。全体を貫く基本的テーマはデモクラシー論とイデオロギー論と言って差支えないであろうが,本稿のテーマとの関連でその内敢えて代表的な著作三っを選ぶとすれば,第二次世界大戦前に発表した2冊計3部のデモクラシー論の大著,戦争直後に刊行された大部ではないが画期的な1冊のデモクラシー論が挙げられよう。その何れもが,国際的視野からしてもティングステーンが第一級の卓越した政治理論家・政治思想家たることを証明する刮目に値する業績と言えよう。

  (1)『デモクラシーの勝利と危機一憲法政策の発展1880年~1930年』
    (Demokratiensseger och kris.Den forfattnings politiska utvecklinger.
1880~1930,Sthlm.1933)。
  (2)「スウェーデン社会民主主義イデーの発展』2巻(Den svenska social demokratiens id-
utveckling1-2,Sthlm.1941)。
  (3)「デモクラシーの問題』(Demokratiensproblem,Sthlm.1945)。

  実に菊判で700頁を超える(1)は,ティングステーンがストックホルム大学政治学講師時代に,「われわれ自身の時代の歴史1880年~1930年」叢書の1巻として刊行されたものであり,第一部においてデモクラシーと独裁制のイデオロギー上の対決を総論的・体系的に考察することによってデモクラシーの本質を問い,第二部においてこの視点を踏まえてフランス・イギリス・ドイツ・イタリー・ロシア・北欧諸国はもとより,日本・中国を含む同時代のほとんどすべての世界主要国における国家体制を歴史的・各論的に分析・検討しでおり,第二次世界大戦に向かう世界各国政治の危機的動向を比類のないスケールと精密さで考察した,まさに記念碑的業績である。
  (2)も2巻合せて総計実に900頁余の大著であるが,この書の有する意義については,英訳本に序文を寄せたイギリスのスウェーデン政治研究家R.F.トマッソンの次の評言がすべてを語っていよう。「1880年代・1890年代の危機の始まりから第二次世界大戦まてでのスウェーデン社会民主党のイデオロギーの変質に関するティングステーン教授の研究は一いかなる基準に照らしても一西欧において最大の成功を収めたスウェーデン社会民主党のブリリアントな叙述である… … 『スウェーデン社会民主主義イデーの発展』は,党の印刷物,党議の記録,国会議事録,党指導者の講演や著述,その他の公開・未公開の原資料のほとんど完壁とも思われる研究に基づいている。本書が1941年に登場して以来,これまでスウェロデン社会民主主義の始原と発展に関する並びなき権威であった」④。インディアナ大学政治学教授T.ティルトンによれば,「イデオロギーの死」文献へのスウェーデン最初の貢献であり,この国社会民主党のイデオロギーにおけるマルクス主義社会主義から福祉国家主義(welfarestatism)への変化を強調するところにこの著作の特質がある⑤。
  (3)についても専門家の評価は極めて高く,例えばデンマ.一クの代表的な法哲学者V.クルーセはずばり,「現代の卓越したデモクラシー信奉者の中で特筆すべきはヘルベルト・ティングステーンであり,彼の『デモクラシーの問題』はミルの『自由論』にも匹敵しうる」⑥,と論評しているが,何れにせよこの書が,翌年の1946年に現れたコペンハーゲン大学法哲学教授アルフ・ロスの『なぜデモクラシーか?』(Hvorfor demokrati?)と並び,戦後北欧を代表する傑出したデモクラシー論であることには変わりない。岡野加穂留氏の監訳がある⑤。
  この他,保守主義・ナチズム・ファシズム・コミュニズムなど現代の代表的なイデオロギーを徹底的な批判のまな板の上に乗せ,そこからデモクラシーの本質を開示しようとした多くの著作があるが,その内でも特に本稿が注目・依拠するのは,「イデオロギーの死」のイデーを初めて鮮明にした論文集『イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー』(Fran ideer till idyll,Sthlm.1966)である。なお,この論文集に対して先駆的意味をもつ著作が,1940年のストックホルム大学で行われた有名な講演を中心に纏あられた同種の論文集『イデー批判』(ld6kritik,Sthlm.1941)である。後者は進歩思想・フランスのサンジカリスムとナチズム・唯物史観といったイデオロギーを用いて「イデー」というものを徹底的に学問的・客観的に追求したものであり,前著についてはその裏扉においてこのように紹介されている。「本書においてヘルベルト・ティングステーンは,現代西側デモクラシーのイデオロギーはその意義を猛烈に減らしてしまい,根本的な政治的対立は衰退して,政治はますますエキスパートと広告専門家の問題になってしまった,宣教の時代は過ぎて,サーヴィスの時代になったことと主張しているのである」。そして,本稿が主題とするのは,「イデオロギーの死」というラディカルな独自のタームで表現される,スカンディナヴィアのそれを含む現代「西側」デモクラシーとイデオロギーの意味喪失との関連なのである。
  以上の5点の他にもティングステーンには王権・外交政策・イスラエル・アメリカ,さらに生死や神と祖国の理念に関する多くの著述があり,さらに貴重な時代証言としての4巻にわたる自分史が存在するが,何れにせよこれらの著作を筆頭に各種の論稿においてティングステーンが展開した政治哲学的思想はスウェーデン国民に巨大な感化を及ぼすとともに,彼自身「典型的な仕方で時代精神の重要な特質を具現する思想家」⑧という意味での卓越した存在意義を獲得することになったのである。ティングステーンの親友であるインゲマール・ヘデニウスが,「彼(ティングステーン)が亡くなったとき,スウェーデンは一人の偉大な叡智を失った。否,それ以上に,野辺に送ったのは一つの時代であったのである。彼の残したの空洞の何と大きいことか!」⑨,と語ったのも,ティングステーンがまさしくこのように20世紀スウェーデンの政治と文化の世界の中心に位置し,長期にわたってこの国の政治的・文化的論争の大部分を支配したからであった。ティングステーンをこのようにスウェーデンの時代論争の問題・方向・慣行を広範囲に規定する「知的巨人」として登場せしめる上で決定的な役割を演じたのは,ティングステーン自身の告白によれば,1920・30年代のスウェーデン知識人の場合同様に,ウプサラ大学実践哲学教授アクセル・ヘーゲルストレーム(Axel Hagerstrom 1868-1939)の「価値ニヒリズム」(vardenihilism)の哲学であった。そして,彼のみならず他の多くのスウェーデン知識人に与えた最も強烈な影響は,なかんずくこの哲学の掲げる二つの理念契機において際立っていた。それは,神や客観的価値の存在を否定する倫理的ニヒリズムであり,哲学及び科学の形而上学的構築を拒否する理論的ニヒリズムである⑩。ティングステーンは師ヘーゲルストレームのこの立場を自らのものとして受容し,
それに由来するスウェーデン固有の哲学・法学・政治学・経済学を包括する広範な思想的潮流・北欧学派の代表者の一人となったのである。
  注
①Tingsten,Herbert:Political behavior,Londonl937,p.230.
②Bostr6m,Bengt-Ove:Samtal om demokrati,Goteborg1988,s.150.
③Lundborg,Johan:Ideologiernas och religionensdod.Enanalys av
Herbert Tingstens ideologi- och religions kritik,Lund1991,ss.183-187.
 ④Tomasson,RichardF.:Introduction to the swedish socialdemocrats.
Their ideological development,trnsl.byG.FrankerandP.Howard-Rosen,NY.1973,p.vii,
⑤Tilton,Tim:The political theory of swedisch social democracy,Oxford 1990,p.148f.
⑥ティングステーンの「デモクラシーの問題』の裏表紙に記載されたVinding Kruseの書評から。
「ティングステーンによる民主政治の弱い面の批判と将来に対する不安は徹頭徹尾客観的であり,現実に
則したものだけがもつ大変な重みがある。多くの独断的・熱狂的な民主政治の信奉者と違って,ティン
グステーンは民主政治を決して決定的なものとは見なさない。逆に,彼にとって民主政治とは一つの問   題なのである。このことはすでに彼の本のタイトルに表れている。民主政治はあくまで最大の困難を数   多く含む歴史的実験であり,その未来は不確実である」。
⑦H.ティングステーン:『現代デモクラシーの諸問題』人間の科学社1974。
⑧Nordin,Svante:Fran Hagerstrom till Hedenius.Den moderna svenska filosofin,
Lund. 1987,s.203.
⑨Hedenius,Ingemar:Herbert Tingsten.Manniskan och demokraten,Sthlm.1974.s.81.
⑩(10)ヘーゲルトレームの「価値ニヒリズム」については,次の拙著がある。
   『スウェーデン・ウプサラ学派の宗教哲学: 絶対観念論から価値ニヒリスムへ』、東海大学出版会
    2002年。

 

  2.「イデオロギーの死」以前
    -「超イデオロギー」・「水平化」・「緊張緩和」-
 
  ティングステーンが「イデオロギーの死」というテーゼとの関連でデモクラシー論に集中的に取り組むのは,実際には「イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー一』を刊行した1960年代半ばであり,これ以前の著作には単なるタームとしてもこの特異な複合概念が挙げられた形跡はない。しかし,「超イデオロギー」の理念を筆頭に,「イデオロギーの死」の理念へと結実・収敏してゆく,あるいはそれを導出する他の諸理念はすでに登場しており,われわれとしては『イデーから牧歌へ』における本格的な「イデオロギーの死」論に立ち向かう前に,それに対して前哨的な意味をもつ幾つかの概念とテーゼに言及しておくこと.にする。
  ところで,ティングステーンが常時複数で用いる「イデオロギー」(ideologier)とはそもそも何なのか?状況に応じてこの概念にさまざまな内包を付与するために,それを明確に規定することは必ずしも簡単ではないが,彼が最初にその厳密な定義を試みた1939年の『保守主義のイデー』によれば,「イデオロギーとは,政治行動に駆り立てるであろうと見なされる,あるいは一般にこの役を演じると仮定される表象体系のことである」①,と言われ,2年後の『イデー批判』では,「イデオロギーなる語は極めて体系的な全体を構成し,'行動に対して普遍的で明確な指示を提供すると考えられる政治的表象の集合に対して留保される」②,と語られている。この引用文の直後で,ティングステーンはさらに「これについては明白な定義があるわけではなく,(イデオロギーという)語の使用の支配的傾向を示唆するために語ったにすぎない」,と付言している。これら二つの引用文には,「政治的行動に導く表象」と「行動一般を左右する政治的表象」といった違いがある
が,ティングステーンのイデオロギー論の精緻な分析を試みたJ.ルンドボルイは,「当然後の定義がティングステーンの見解のより厳密な解釈として把握されなければならない」③,と主張しつつ,「さらに彼の綿密な作業に基づいてティングステーンのイデオロギー概念はほぼ次のように定義するのが正しいであろうとしている。「根本的な現実判断と価値判断から構成され,ある程度の持続性を保持しっっ政治行動を左右する機能を有する信条集団… …この(極めて広義な)概念枠には古典的な自由主義・保守主義・社会主義の立場も純粋に私的な政治的立場も含まれる」④。ティングステーンにおけるイデオロギーの概念の意味については,われわれとしてもルンドボルイのこの規定を十分に受け入れることができる。このことを前提とした上で,本来
の作業を継続することにしよう。
  先ず,隣国ドイツにナチ政権の樹立を見たのと同じ1933年に刊行された上記(1)の『デモクラシーの勝利と危機』では,第一次世界大戦後ヨーロッパ諸国で異常とも思えるエネルギーによってデモクラシーの優位性を証明しようとする試みが行われ,多くの国において普遍的な見るべき勝利を納めた結果,「デモクラシーという言葉は,かつてあ"神"や"自然権"のように,政治的体系構築の際の礎石となった」⑤,と主張されている。さらに以下のごとき発言からも,デモクラシーがまさに各種の「イデオロギー」を超出している立場と見なすティングステーンの基本的姿勢が窺われよう。「現代におけるデモクラシーのイデーの暗示的な力は,デモクラシーという言葉の中に支えを得ようとする独裁政治の運動の営為によって表現されている。この営為はコミュニズムにおいて最も鮮明に登場する… … ファシズムも最近では"真の"デモクラシーを代表していることを要請するようになった」⑥。
  そして,デモクラシーのこういつた脱乃至超イデオロギー的性格に関しては,実際に「脱デモクラシー」「超イデオロギー」というターム自体は用いられないものの,41年の『スウェーデン社会民主主義イデーの発展』の結論部において,スウェーデン・社会民主主義が過去60年間に遂げた変化を総括するに際してのティングステーンの言辞によっても,彼が当時すでにそういった立場に極めて近い視点に到達していたことを窺わせるであろう。「イデオロギー論争の過程で社会化は一般福祉によって,階級闘争は国民の家(folkhemmet)によって,戦術上の手としてのデモクラシーは最高原理としてのデモクラシーによって,権力の完全掌握は他の権力との妥協・合意・協力によって,国際主義は国内的な視点によって,さまざまな宗教的・人道主義的民衆運動への無関心と不信は評価と相互理解によって,取って代られたのである… … しかし,だからといって,かっての社会民主主義の出発点となった基本的表象と目標が放棄されたわけではない。進歩と啓蒙に対する信仰,政治活動は個人の幸福と自由にとって肝要であり,平等のために活動し,人間間の明確な社会的不平等を制限しようとする欲求,人間の自由のより広範な枠組みはより大きな繁栄と文化によって創造されるという信仰,国民の平和とより緊密な関係に対する欲求は,・いまなお残存しているのである。通常リベラルと称されるこれらの理念は,現代スウェーデンの主要な政党すべてによって支持されている。かくて社会民主主義独自のイデオロギーといったものは存在しない。わが国における主要な政治的方向の間にある差異は,本質的に,各政党が他の政党の積極的に表明しない幾つかの要求を格別精力的に追及するという意味での視点の違いに存在するのである。図式的に言えば,現在の社会民主主義が他の政党から区別される根拠となるのは,全体として社会改革と国家の介入に特別集中するという点である」⑦。つまり,こ'こでティングステーンは,スウェーデン社会民主主義の力点が社会改革と国家介入に置かれていることを指摘しつつも,60年間の政治的苦闘の
結果,かつて社会民主主義固有の「基本的表象と目標」であったものが,現代では,スウェーデンの主要政党すべてが支持・共有する政治的理念となっており,その意味でそれらはまさに各政党のイデオロギーのそのものを超出していると考えているのである。
  だが,第二次大戦終結の1945年発行の『デモクラシーの問題』の中にははっきりと「超イデオロギー」のタームが登場し,前著においてはなお不分明に留まっていたこの概念の内包が明瞭に定義されている。「デモクラシーへの信仰は,例えば保守主義・自由主義・社会主義のごときものと同じ意味での政治的見解ではない。それが意味するのは,国家統治の形態についての,政治的決定のためのテクニックについての理解であって,国家の決定内容や社会構輩にっ陸ての理解ではない。だから,デモクラシーは一種の超イデオロギーと見なすことができる。つまり,デモクラシーはさまさざまな政治的見解に共通しているという意味においてである。民主主義者でりながら,同時に保守主義者・自由主義者・社会主義者なのである」⑧。
  このように,デモクラシーが保守主義者・自由主義者・社会主義者によって共有されうる「超イデオロギー」の政治的立場を意味するというティングステーンの見解は,『デモクラシーの問題』より10年後の1955年に英文で発表され,特にイギリスとアメリカの政治学者から非常に注目された論稿「スウェーデン・デモクラシーの安定性と活力」(Stability and vitality in Swedish democracy)においても,異なった視点からではあるが,例えば「価値共同体」(a community of values),「水平化」(levelling)といった概念によっても提出されていると見ることができる。そして,同時にここでは,次なる著作『イデーから牧歌へ』においてラディカルに展開される論点を先取する仕方で,この概念の外延に包み込まれる諸点が多彩に指摘されている。
  疑いもなく世界中で最も成功した実例の一つとして自ら誇るスウェーデン・デモクラシーの特徴を,「国民と防衛」「デモクラシー自体」「国有化」「社会福祉政策と税」「教会と宗教」といった観点から分析したこの論稿において,ティングステーンは,デモクラシーをひとまず「政治的自由の状況下での自由選挙権を通しての統治」,かつ「社会のさまざまな利益団体やカテゴリーが国家の枠内で彼らの要求を主張し,そのやり方で社会的調和に導くことを可能ならしめる」統治形態として規定する⑨。しかし,ティングステーンによれば,第二次世界大戦を契機として,デモクラシーをめぐる論争の傾向と色彩は現代独裁制の勃興,さらにそれのもつ危険と恐怖によって規定されるにいった結果,デモクラシーという統治形態の成功如何は根源的に「安定性と安全性」の尺度で計られるようになったのである。したがって,「成功せるデモクラシー」とは,本質的に,「(イデオロギー上の)大きすぎる相違によって震憾させられることのない,ナチズム・ファシズム・コミュニズムによって脅かされることのない,強力な価値共同体を有する政治体制」⑩を意味するのである。
  このようにも言われている。「スウェーデン・デモクラシーが大成功を収めたことを意味するさまざまな発展は,いろんな仕方で説明できる。過激主義や愚行のあるものは経験や常識を通して信用されなくなってしまった。コミュニズムやナチズムの例はそれらの抑止力としての性格ゆえに有用であった。思弁的・形而上学的理念はその栄光と力を失い,気紛れと極端論の表現に還元されてしまった。かっては憤怒の種であった制度は無害なものになってしまった。このことは君主制と教会の両者に当てはまる。つまり,デモクラシーはいろんな分野で妥協を成し遂げたのである。この妥協は,誰一人狂信に駆り立てることなく,万人に受入れられた。イデオロギー上の,そして現実の経済一社会上の水平化が起り,その結果最も重要な幾つかの点で価値共同体が生れることになる」⑪。そして,スウェーデン・デモクラシーが際立った成功を収めた大きな理由として,ティングステーンは,'この国を特徴づけている「民族的・宗教的同質性」を挙げる。つまり,この国には少数民族は存在せず,宗教グループは小規模で平和的である。「過激な信仰は,この例外的に世俗化された社会では,過激な無神論同様ほとんど無縁なものと見なされる」⑫のである。
  もとよりティングステーンにとっても,「成功せるデモクラシー」のもたらすこのような「価値共同体」の成立と,「イデオロギーと現実」の両者における」「水平化」への方向がスウェーデンに限定されるものではなく,他の多くのデモクラシー国家の共有する政治経済的・社会的現象であることは言うまでもないが,ともあれティングステーンが先の『デモクラシーの問題』の著作においても「スウェーデン・デモクラシーの安定性と活力」の論稿においても,同一の表現を用いながらどこまでも強調するのは,このような「価値共同体」や「水平化」が以前には衝突しあったさまざまな理念間の「一種の無意識的な妥協」を表明し,かつそれを無制約的に前提としているということである。反面,それは,「保守主義的・自由主義的・社会民主主義的要素」をことごとく包撮し,それらの融合から成り立っていることを意味するのであって,まさしくそこに「成功せるデモクラシー」が20世紀初頭の自由主義とも強烈なマルクス主義的社会主義とも載然と区別される所以がある。この場合,当然,イデオロギーの意義は大きく減少し,力点は「政治から行政への,原理・原則からテクニークへの発展」に移されることになる。「価値の一般的な基準が共通に受け入れられれば,国家の機能は政治を「一種の応用統計学として活用するという極めて技術的なものとなる」⑬,と言われる所以である。国家の機能変化に対応して,政党のシステムもその性格を漸次変化させる。「活力の印したる政党内の論争は死滅してきており(forminskas,dying out),政党間の論争を支配しているのは,仰々しい色挺せた原理原則をあげつらいながらも,今日的な状況に規定されて,戦術上の目的を結びつけようとする試みである」⑭。
  このような意味で,ティングステーンによれば,激しいイデオロギー論争で養われた活力は「成功せるデモクラシーの水平化と妥協の状況」の中では維持できない。活力と水平化・妥協とは両立しえないのである。また,安定性を犠牲にして活力を欲することも不可能である。「フランスやイタリーの虚弱なデモクラシー」を羨ましいとは思わないと彼は言う。両国の場合,カトリック教会と強い共産党が相変わらずイデオロギー論争に熱と光彩を提供し続けているからである。さらに,ティングステーンは「保守的偏見と戦闘的理想主義」を焚きつける「民族問題」に苦悩するアメリカ合衆国と比較して,そのような問題を抱えていないスウェーデン国家の幸運に感謝している。しかし,このようなデモクラシーのもたらす政治的イデオロギーの「安定性・水平化・緊張緩和」が,政治の諸問題に個人の参加する度合いが減少することを内含しているというのも,ティングステーンの基本的な考え方であって,われわれが本稿の冒頭で述べた,投票率の高さはデモクラシー制度の危機の兆候たりうるという彼の見解が,この考え方に由来することは改めて指摘するまでもないであろう。
  しかしながら,それにもかかわらずティングステーンは,『デモクラシーの問題』でも,今日の状況下においてはデモクラシーは個人がある程度の政治的見識を獲得し,自分の見解を主張し,社会の出来事に影響力を行使しうるという意味での「人格的自立」を無制約的前提とすることをもとより等閑視しない。デモクラシーが「誰にとっても,どこにおいても実現しうる理想」たる最深の根拠はそこにこそ存在するからである⑮。「スウェーデン・デモクラシーにおける安定性と活力」の論稿末尾では、このことが次のように力説されている。「この(政治の諸問題への個人の)参加がデモクラシーの真の持続の必要不可欠な条件であるとしても,究極的に強調されるべきは,デモクラシーの究極目標は個人の自由を拡大し,彼の独立と有意味的な個人的行動と呼ぶべきものに対する彼のキャパシティーを高めるということである。このことは他の一切の問題を超越する大問題である⑯。
  だが,デモクラシーの本質がかくのごときものである、とすれば,それは必然的にそれ自身のうちに「ある程度和解不可能な要素」を内蔵せざるをえないという「緊張関係」を孕むことになる。『デモクラシーの問題』では,この緊張関係は,個人の次元では「幸福・解放・自己主張」の主体的契機と「変身・連帯・自己犠牲」の社会的契機との間の,端的に言えば「自立性」と「社会感情」という要素間のそれとして,国家統治の内部では「自由の原理」と「多数派支配の原理」との相剋・葛藤として成立する⑰。そして,「スウェーデン・デモクラシーにおける安定性と活力」の論稿によれば,まさに表題の暗示する,デモクラシーの政治形態内部における「安定性」と「活力」との緊張関係である。かくて,この点を踏まえてデモクラシーという政体の抱える根本問題を指摘すれば,ティングステーンの言うように,「安全性や十分な価値共同体を維持しながら,さらなる熱意・より包括的な生き生きとした関心・原理論争・個人的一市民的努力を引き起こすことができるかどうか」⑱、ということになる。
  ティングステーンの「イデオロギーの死」のイデーには,「超イデオロギー」を筆頭にそれに先行し連接するさまさざまなイデーがある。われわれは,デモクラシーの勝利と危機』『スウェ'一デン社会民主主義の発展』『デモクラシーの問題』「スウェーデン・デモクラシーにおける安定性と活力」といった,ティングステーンの代表的なデモクラシー論を通してそれらが具体的にどのように展開されているかを探った。しかし,既述のごとく,「イデオロギーの死」のイデーが実際に固有の独立的な主題として本格的に論じられるのは,1967年に発表された『イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー一』においである。ここで提出されたティングステーンのラディカリズムは,当時スウェーデンにおいて激しい論議を巻き起こした。
 注 
①Tingsten,H.:Konservativaideerna,Sthlm.1939,s.5.
②ibid,:Idekritik,Sthlm.1941,s.9.
③Lundborg,J.:Ideologiernas och religionensd6d,s.33.
④ibid.s.4Lなお,ティングステーンにおけるイデオロギー論の論究は,デモクラシー論同様,別個に扱わ
れるべき重大な問題であり,本稿著者自身も自分に残された課題と考えている。ルンドボルイの上掲著
『イデオロギーの死と宗教の死。ティングステーンのイデオロギー批判と宗教批判』は,その点で貴重な2 次資料となるが,彼の独特の視点ゆえに,ティングステーンにおけるイデオロギーとデモクラシーとの関係
についての分析は極あて不十分なままに留まっている。
⑤Tingsten,H:Demokratiens seger och kris.Den forfattningspolitiska utvecklingen
1880-1930,Sthlm.1933,s.118
⑥ibid.s.117.
⑦Tingsten,H.:Den svenska socialdemokratiens ideutvicklingII,s.418.
The swedish socialdemocrats.Their ideological development,trnsL by
G.FrnkelandP.Howard-Rosen,NY.1973,p.707ff.
⑧Tingsten,H.:Demokratiens problem,Sthlm.6.upplag.1969,'s,43.岡野監訳「現代デモクラ
シーの諸問題』人間の科学社1974年49頁。なお本文中の訳語はこの訳書のものと同一ではない。
⑨Tingsten,H.:Stability and vitality in swedish democracy,in:Political
Quarterly,VoL26,p.140.
⑩ibid.p,146
⑪ibid.p.146
⑫ibid。p.146.
⑬ibid.p.147.
⑭ibid.p.148.
⑮Tingsten,H.:Demokratiens problem,p.159.岡野訳211頁。
⑯Tingsten,H.:Stability andvitalityinswedishdemocracy,p.151.
⑰Tingsten,H.:Demokratiens problem,s,159.岡野訳211頁。
⑱(18)Tingsten,H.:Stabilityandvitalityinswedishdemocracy,p.149.


   3.「イデオロギーの死」一デモクラシーの生成一

  ティングステーシは,「イデーから牧歌へ』に先立っ3年前の1952年7月に,自ら編集長を勤める『ダーゲンス・ニューヘテル』紙に3回にわたり論説を掲載している。「デモクラシー・完成か崩壊か」「成功せるデモクラシー」「安定し,かっ活力あるデモクラシーは?」の3編である。ティングステーンによれば,これらは何れも,スウェーデンを筆頭にデモクラシーという政治体制の実現に成功した他の諸国においては,「強力な価値共同体」(den starka vardegemenskapen)が成立しており,もはや「イデオロギーや価値判断の問題をめぐる政党間のさまざまな対立は存在しなくなった,あるいは無意味になった」ことを証明しようとするものであった①。そして,このように,強力で統一的な価値共同体を構成するデモクラシー国家においては,
政党間のイデオロギーや価値判断をめぐる対立関係はもはやその存立根拠を喪失したという見解を,さらにラディカルに「イデオロギーの死」の理念まで凝縮させ,そこに明確にデモクラシーの成就・実現を認識する作業が行われるれるのが,上記『イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー一』である。
  この著作の中で,ティングステーンは,サブタイトルの呼称,「成功せるデモクラシー」(den lyckliga demokratien)を,さらに「大成功のデモクラシー」(den framganglika demokratien),「めでたいデモクラシー」(den lyckosamma demokratien),「調和的なデモクラシー」(den harmoniska demokratien)といったふうにも呼んでいるが②,彼によれば,これらはすべて本質的に「政治的見解間の根本的な対立がミニマムにまで縮小された国のデモクラシー」の謂であって,このことが最もラディカルな言葉で表現されたものこそ,「イデオロギーが死滅するときにのみデモクラシーは生きることができる」③なるテーゼに他ならない。かくて,「完成されたデモクラシー」と「イデオロギーの死」とはまさしく解離不可能な相関概念なのであるが,以下ティングステーンの主張する両概念のこのような緊密な相即・相関性をより精密に確認してゆくことにする。
  『イデーから牧歌へ』という表題によって,ティングステーンが,「長期間にわたる組織化・高い経済水準・かなりの均質性を誇る西側諸国」④ に共通の発展路線とその特質を暗示しようとしているのは明らかである。そして,国家形成に関わるこのような共通の路線と特質こそ「調和的デモクラシー」であって,ティングステーンはこれを実現した具体的な西側諸国として,ヨーロッパではスウェーデン・デンマーク・ノルウェーの北欧3国の他,イギリス・オランダ・ベルギー・スイスを挙げ,ヨーロッパの外ではカナダ,オーストラリア・ニュージランド,さらに人種問題によって「一般的なイデオロギーの均衡」が破られている負い目はあるものの,アメリカ合衆国もそれに数える。南アメリカではウルガイとチリが算入されるが,アジア・アフリ'カ
ではイスラエル以外この種のデモクラシーはほとんど実現しておらず,特に後者の場合国家としての組織を一応整えながらもらも,一党独裁傾向が強いことを指摘している。1937年刊行の『デモクラシーの勝利と危機』において日本に深い関心を示したティングステーンが,67年のこの時点で日本のデモクラシーをどのように把握していたかが不明なのは何としても残念である(本稿執筆後かなり経ってティングステーには敗戦後の日本の探訪記が存在することが分かった。この問題についてはその探訪記から若干の知見が得られるかもしれないが、いまだ果たし終えていない)。
  ティングステーンにとっても,「国民統治の成功と発展の究極の結果」としての「調和的デモクラシー」が,世界地政学的に見て,いまだ「例外的現象」であることは否定しえないが,スカンディナヴィア諸国が他の国に先駆けてとっくにこのような「政治における一般的な緊張緩和状態」に到達しえた本来的理由として,彼は,これらの国々の高い生活水準と国籍・言語・宗教の問題におけるほとんど例を見ない均質性を挙げる。「民族的乃至言語的違いは現実的にも観念的にも存在しない。その結果,多くの福祉デモクラシー国においては統一性を阻害し,ある場合には容易ならざる困難の原因ともなる衝突や問題が脱落することになる… … スカンディナヴィアでは宗教の違いも無意味である。圧倒的多数が国教会乃至国民教会に属すると同時に,この種の事柄に対する無関心が他のいかなる国にもまして広く蔓延している」⑤。確かに,プロテスタントとカトリックとの不和に典型的に見られるように,世界のいたるところに政治的影響の避けられない根深い対立がある。だが,ティングステーンは,今世紀初頭なおさまざまな対立が深刻であったにもかかわらず,デモクラシーへの政治的変革を理想的な仕方で達成した母国スウェーデンの場合を念頭に置きつつ,「緊張の緩和されたデモクラシー国家」においては,相互に敵対しあう壮大なイデオロギー体系のごときは本質的にその意味を失い,かつての論争問題の多くにおいて「一つの共通の見方・重要な価値共同体」によって取って代られると主張する。この種の論争問題として,ティングステーンは,なかんずく,デモクラシー・国家防衛・教会問題・禁酒問題・社会政策・経済生活における国家の役割と関連する諸問題を挙げる。そして,これらの問題に取り組む姿勢において政党間にいまなお「ニュアンスの違い」のあることは否定しえないものの,何れの問題への対応をめぐっても,その総合的な性格は「普遍的な諸々のイデーの融合」という意味での「脱イデオロギー化」(avideologiesering),まさに「イデオロギーの死」というタームによって表現しうるとするのが,ティングステーンの基本的見解である⑥。
  『デモクラシーの問題』の言辞を部分的にはそのまま利用しつつ,『イデーから牧歌へ』ではこのように述べられている。「デモクラシー・防衛・社会改革主義が合い言葉として設定されうる。それらは超イデオロギーの勝利の核心を突いている。富の再分配ではなく生産増大が,あらゆる国民階層の福祉増大の中心的手段と見なされる。国家は計画的・指導的に介入すべきだが,生産活動は,本質的に,限界と条件を設定した上で私的企業に委託されるべきである。完全な平等は可能でもなく,決して望ましくもないが,さらなる平等化は努力に値するものである… …高度の安定した雇用は確保せられるべきだが,インフレは食い止められるべきである。幼児・老人・病人・失業者は,個人の環境如何にかかわらず,それなりの生活水準が保証されるべきで
ある。国家はこれらすべての目標が達成されるように留意しなければならない」⑦。
  つまり,現代のデモクラシー国家においては,このような目標を含む広範な社会福祉政策は,デモクラシーを標榜する政党にとってはもちろん,大多数の国民にとってもまさに「イデオロギー」を超越した共通の目標・共通の価値となっているのである。したがって,このような「相対的合意」の上に構築されている現代西側のデモクラシー国家は以前よりもはるかに安定と堅固さを得ており,政党にしても以前のように「イデオロギーを宣伝する世界観の党」⑧としては登場しないのである。政党の拠って立つ基盤としての保守主義・自由主義・社会主義といった各イデオロギー間には,もはや「和解不可能な衝突を触発するような相違」は存在しない。ティングステーンによれば,今日のデモクラシー諸国の政党に共通する特質は,独自の見解を強調することによって自らの存在を正当化しようとする本来の欲望よりも,根本的な争いを収縮させるような共通の価値目標を設定する方向であるという。そして,このように価値の共有を目標として設定することが意味するのは,ティングステーンにとっては,まさしくイデオロギーの重要性の減少,その終焉と死への方向ということなのである。
  ティングステーンは,先に引用した「イデオ,ロギーが死滅したときにのみモクラシーは生きることができる」という事態を,個人の場合野心や良心の呵責・競争欲が内なる不動心に屈するときにのみ「細やかな幸福」が得られるのに似ているとして,デモクラシーという「調和の牧歌」(harmoniens idyll)が「戦いの触発」と和解しうると考えるのは「根拠1なきユートピズム」であると考えている。本来であれば,デモクラシーといえども,政治的にアクティヴたりうる可能性のみならず,政治生活に実際に参加しうる可能性を含むべきであろうが,ティングステーンはこのような立場は取らないのである。B.O,ボストレームが,「確かにティングステーンも,他の民主主義者同様,ある程度の政治的な関与と知識は選出された代議員の監視が機能するための必要条件だと考えるが,包括的な政治参加と活動はティングステーン的デモクラシー概念には入ってこない」⑨,と語る所以である。冒頭で触れたように,一見極めて逆説的な主張ながら,積極的な政治参加が危機の兆候たりうるというティングステーンの見方,さらに「デモクラシーは大衆の側からの恒常的な活動を意味しない」⑩,という彼の新たな発言も,ボストレームの解釈の正当性を裏付けていよう。・
何れにせよ,ティングステーンの判断によれば,「イデオロギーと個別的な価値判断の消失」,そして「社会福祉政策」に集約される「価値共同体の拡大」は,それと関連した究極の現象としての「神の消失乃至稀薄化」ω)同様,第二次世界大戦後のデモクラシー国家に共通な中心的政治動向となったものである。デモクラシーという政治形態の合い言葉は,あくまで「イデオロギーの死」に他ならないのである。
  以上のごとき考察の後,ティングステーンの「イデオロギーの死」という命題を改めて整理してみると,そには二つの基本的テーゼが含まれていることが判明する。一つは,文字通りイデオロギーは死滅した,というテーゼである。そして,今一つのテーゼは,この「イデオロギーの死」と連繋して新しい次元が生起したことを強調している。そして,この新たな次元に対してティングステーンが付与する呼称が「超イデオロギー」に他ならない。したがって,ティングステーンの著作活動における概念生成の時期という点では,「超イデオロギー」の概念は明らかに「イデオロギーの死」に先行しているものの,デモクラシー実現の論理的図式からすればその反対であって,「イデオロギーの死」から「超イデオロギー」への方向を取ることになる。
以下,われわれは先ず第一のテーゼを再吟味した上で,さらに第二のテーゼに向かうことにしよう。
  「50年前(1916年)には種々の対立が大きかった。イデオロギー体系はとっくにその鋭さ・新鮮さを失ってはいたが,いまだに1800年代の偉大な欠陥思想家によって鼓舞された視点を操っていた」⑫。この章句によってティングステーンは死滅したイデオロギー上の衝突を述べているわけであるが,「1800年代の偉大な欠陥思想家」という表現でティングステーンが指しているのはベンサム,J.S,ミル,H.スペンサー,ヘーゲル,マルクスなどであり,また1910年から20年にかけてスウェーデンに生じたイデオロギー論争において指導的な役割を演じた「J.ブランティングと一連の若い社会の敵」のことが言われているのである。そして,彼らによって動機づけられたイデオロギーの衝突がいまや生命を絶たれたというのである。この死は,1800年代に成立したイデオロギーが,少なくともティングステーンの挙げる14ケ国においては(79頁参照),もはや政治的立場に対して案内役を果たしていないということを意味する。このように,かっては激しく衝突し合いながら,いまや生き絶えたイデオロギー論争のモティーフとしてティングステーンは,『イデーから牧歌へ』では,特にスウェーデンの状況を念頭に置いて,先に項目的に挙げたように5つのテーマとして掲げている⑬。
  1.「デモクラシー」:少なくとも1918年以前は普通選挙権に対して,自由党は賛成であったが,保守党は頑強に反対した。社会民主党はもとよりデモクラシーを肯定したものの,それが社会主義に到達するための単なる手段のか,それとも目標それ自体なのかをめぐっては合意は成立しなかった。婦人選挙権や王政の存続についても彼らの意見は分かれ,ストライキ権・組合権のごときデモクラシーと結びついた市民的自由についても見解は分れた。
  2.「国家と防衛」:保守党は国家の統一と防衛を唯一の重大課題として把握し,政党形成・政党支配に対して批判的であった。逆に,社会民主党は基本的に反国家的であり,「党内の強行派,時には大多数が一切の防衛を拒否した」。「プロレタリアートは祖国を持たない」が,彼らの合い言葉であった。
  3.「社会化と社会政策」:マルクス主義の色彩の強い社会民主党は生産手段の集合化を主張したが,他の諸党はこの考え方に反対し,私的所有権を生産向上にとって最善と見なした。さらに社会政策・累進課税・失業問題に対する国家の介入権についても政党間には差異があった。
  4.「教会と宗教」:保守主義者は国教会体制を擁護し,社会民主主義者と自由主義者はこの体制の反対者であった。
  5.「禁酒問題」:特殊な性格の有してはいるが,北欧諸国やアメリカ合衆国では解決の方策をめぐって政党間のイデオロギーの対立を鮮明にしている問題である。
  ティングステーンによれば,1800年代の「欠陥思想家」に指導されっっ,1910年以降政党間のイオロギー衝突の契機となった主要なテーマは以上の通りであるが,それでは1960年代にそれまで政治論争の種であった各種イデオロギーが終息を迎えたとティングステーンが判断する根拠は何であろうか。それについて彼の挙げる理由を整理すれば,ほぼ7つに総括しうるであろう⑭。
  1.デモクラシーという政治形態の成立当初,この国民統治に対する要求の背後には和解不可能な対立的な理想があった。国民の要請は「妥協と協定によって満たすべし」という理想と,彼らを「イデー論争によって啓発・熱中させるべし」という理想である。いわば「調和の牧歌と戦いの触発とを同時に夢想した」のである。しかしながら,デモクラシーが前者の方向で理想を実現したとき,後者の理想を支える情熱は冷却したのである。つまり,デモクラシーが成功を収めたことで戦闘意欲が消失し,同時にイデオロギーも死期を迎えたのである。
  2.「イデオロギーの死」の第二の原因をティングステーンは第二次世界大戦中の経験に見いだす。この期間頂点に達したイデオロギー上の対立と緊張によって経済危機がもたらされ,政党間の戦いの激しさゆえに国民統治は弱体化してしまったという経緯が「脱イデオロギー」への動きを準備したのである。「戦時中は戦後期の緊張緩和を準備する試練と忍耐の時代となった」,と言われる所以である。
  3.東欧における独裁政権の出現も「イデオロギーの死」のさらなる原因であった。これからの脅威が,他のヨーロッパ諸国の内部で,政治的対立の減少と政治的統一による自己防衛への志向を高めたと,ティングステーンは考えている。
  4.デモクラシーという政治形態の完成がイデオロギー上のさまざまな対立の解消に導いたのと同じように,ティングステ一ンの主張によれば,物質的な平等化をもたらした福祉国家の実現も,結果的には,「イデオロギーの死」に導いたという。彼は言う。「何も彼もがある程度満たされ,自分の現状に憶想をもらすのは政治行動に無縁な少数の者たちだけといった場合,大きくて危険な衝突やそれに対応するイデオロギーや価値破壊などはとうてい考えられない」。
  5.以上の他に,さらに「イデオロギーの死」の原因としてティングステーンが挙げるのは,世界各国でさまさざまなイデオロギーの実現がもたらした,「かってないほどイデオロギー体系への信頼を奪った」否定的経験であった。「われわれは社会化路線ζ 同様に極端な国粋主毒が出現するのを目の当たりにし,幾つかの国では際立って自由主義的なイデーの破滅的な結果を迎えたことを目撃した」のである。
  6.イデオロギー自体の分析もその死刑判決に力を貸したとティングステーンは言う。「知識人の間では最近一般的な見解もそれらに代わる神話も権威を失ってしまった。体系は批判によってバラバラに解体され;プラグマティックな常識的な考え方に後退してしまつ・た」。ティングステーン自身もこの過程に大きく関わったことは言うまでもない。
  7.「イデオロギーの死」と密接する,テイングステーンのいわゆる「窒極の一般現象」としては二つのものが挙げられる。「神」と「戦争」である。「神や戦争がイデオロギーの構成上無用になった」のである。換言すれば,政治論争の場から神が消失し,戦争を徹底的に放逐したことが「イデオロギーの均衡化」の前提を創造したのである。
  以上、ティングステーンが1800年代の「欠陥思想家」の影響下デモクラシー論争の際中心的モティーフとなったと見なす5個のテーマと,さらに1960年代に入ってこれらをめぐってのイデオロギー間の衝突の終息の原因として挙げた7っの根拠とを比較的詳細に辿った。ティングステーンにおける「脱イデオロギー」「安定性」「水平化」「緊張緩和」といった独自のタームはすべて,このような「イデオロギーの死」によって新たな「超イデオロギー」の次元,「調和的デモクラシー」が生成することを暗示する言葉でもある。それではティングステーンはこの「超イデオロギー」の次元の問題をより厳密にどのように把握しているであろうか?
 注 
①Tingsten,H.:Fran ideer till idyll.Den lyckliga demokratien,Sthlm.1967,s.5.
『Dagens Nyheter』紙掲載のティングステーンの論説の日付と原タイトルは次の通り、
27/7 Demokratin:fullandningeller forfal1,29/7Den lyckade demokratin,
31/7En stabll och vitaldemokrati?
戦後スウェーデンでは「デモクラシー論争」が1945年前後,50年代,60年代の終り,そして74年以降の四
つの時期にわたって生起した。第一期のそれは「計画経済・社会化・政治的デモクラシーを統一しう
  る可能性」をあぐって,特にティングステーンと社会民主党の大立者ヴィグフォルシュ
(Wiforss,Ernst)との間で交わされた論争が中心であり,そして第二期論争のきっかけとなったのが,上
記ティングステーンの論説であり,これにスウェーデンの政治学者たち多数が反論するという形で論争は
経過した。第三期論争は,社会のいろんな領域での権力集中・官僚主義化傾向が中心的テーマであった。
  しかし,原理論争の性格が強く,より根本的なデモクラシー問題をあぐって広範な大衆を巻き込んで行わ  れたのは第四期の論争であり,その際中心的なテーマとなったのがティングステーンの「超イデオロギ   ー」としてのデモクラシー論であった。なお,この第四期論争の資料集とも言うべきものが論争の主役の  一人ニルス・エルヴァンデルによって刊行されているが(Elvander,Nils   
  (red.):Demokrati och socialism,Sthlml975),この論争の考察は筆者o,抱える今後の課題の一つ  である。
  ②ibid.S.5,8,18.
  ③ibid.s.18.
  ④ibid.s.8.
  ⑤ibid.s.9.
  ⑥ibid.S.14.
  ⑦ibid.S.16,
  ⑧Tingsten:Demokratiens problem,'s,154.岡野訳「現代デモクラシーの諸問題」203
  ⑨Bostrm,B.0.:Samtal om demokrati,s.150.
  ⑩(10)Tingsten,H.:Argument,Sthlm.1948,s.246.
 ⑪ibid.:Fran ideer till idyl],s.19.
  ⑫ibid.$。1α
  ⑬ibid.s,11-13.
  ⑭ibid.S.18-20.


  4.「超イデオロギー」
    ー「価値共同体」・「福祉国家」・「覆う影」一

  この「超イデオロギ「」というイデーの「勝利の核心」をティングステーはすでに引用した三つのイデー・「合い言葉」によって表現する。「デモク社会改革主義」である。先ずティングステーンは,デモクラ
シーという政治体制については主要な政党間にほぼ完全な合意が成立していることを確認する。デモクラシーが最高の論争問題の的であった時代はすでに過去のものとなり,デモクラツーの価値についてはあらゆる政党が一共産主義者に対してはティングステーンは留保するが一見解の一致を形成しているのである。国民の連帯と防衛についての見方にも同じことが妥当する。ティングステーンはスウェーデンが防衛に値する国家であるとする見方には全政党に異論がないと証言する。国家には特定な団体のために介入する権利と義務があるというのも,すべての政党から合意を得ている重要な社会政策である。総じて,国家は広範な活動領域を有するという見方は,ティングステーンが「超イデオロギー」の核心と見なす点であって,「超イデオロギー」の
原則に則っても私的所有権は保持されるべきことを容認する。しかし,失業やインフレの抑制という仕方での共通の目標,万人にとっての教育の可能性,さまざまな階層間の経済的平等が達成せられるために必要とあれば,国家は介入し,計画し,指導すべきだというのが,「超イデオロギー」の基本的立場なのである。
  そして,このような「超イデオロギー」の次元に成立する新たな政治体制こそ,統治の基本原理を「政治から行政への移行」(en overgang fran politik till forvaltung)に置く真の意味でのデモクラシー,ティングステーン固有のタームを用いれば,まさしく「成功せるデモクラシー」「調和的デモクラシー」に他ならない。このようなデモクラシーの本質をティングステーンは,「スウェーデン・デモクラシーの安定性と活力」』と『イデーから牧歌へ』の両方において,あたかも彼の不動の確信を物語るかめごとく,まったく同一の表現を用いて述べている。すでに引用した部分を含むが,改めてその全体を示せば次の通りである。「その本質は,一種の共通のプログラムの受容によってさまざまな見解や価値づけの意味が強烈に縮小され一目的と手段との明瞭な区別に関する幻想に赴くことなく、一 政治から行政への,原理原則からティクニークへの発展を語ることができるということである… … 広範な国家活動の結果が,この共同体のケルンプンクトである」①。
  ここには「超イデオロギー」一「成功せるデモクラシー」という政治体制の根本的な特質が輪郭的に示されている。つまり,この政治体制の特性は「一種の共通のプログラムの受容」にあり,それによつで必然的に従来イデオロギー衝突の根拠・原因となった「さまざまな見解や価値づけの意味」が「縮小」され,結局は「死」に追い込まれると言われているのである。このことは,前述の「デモクラシー・防衛・社会改革主義」を共通のプログラムを遂行しようとする「超イデオロギー」の立場は,そのことによって同時にまた「さまざまな見解や価値づけ」をも超出する次元に成り立つことを告知していることになる。「どの手法を選択するかは一つの見解あるいは少なくともさまざまな前提や価値づけの体系によって動機が与えられるものと考え
られていた一まさにこれが政治であった」②の一節は,彼が過去のイデオロギー中心の政治を矛盾・対立し合う多様な「見解」や「価値づけ」に基づく政治と見なしており,したがって彼にとっては「イデオロギー」と「価値づけ」とは同義的概念であり,逆に「イデオロギーの死」は広義においては「さまざまな価値づけの死」を包含しているであって,「超イデオロギー」はまさに「超一価値づけ」の意味でもなければならないことを暗示していると言わなければならない。
  だが,それならば,「超イデオロギー」の次元ではいかなる「価値づけ」も容認されないのであろうか?したがって,「超イデオロギー」としての「成功せるデモクラシー」「調和的デモクラシー」においては一切の「価値づけ」は払拭されるのであろうか?もとより,否,である。実はディングステーンは,いろんなところで,「超イデオロギー」が一連の共通の「価値づけ」から成立し,その意味においてまさに新たな「価値共同体」を構成するものであることを了解しているのである。例えば,『イデーから牧歌へ』では,「超イデオロギー」によって特徴づけられる「調和的なデモクラシー」というのは,本質的に「イデオロギーの時代以前,対立的な価値づけの時代以前の政治状態に立ち返ったことを意味すると述べたのに続いて,さらに彼は次のように言葉を続けている。「長期にわたる断絶の時代の後,国家と社会を根本的に変えた変革と革命の後,多数の国で(価値)共同体が強力になり,政党の存続と争いにもかかわらず,行動は同じ規範によって規定されるようになった。政治から行政へ立ち帰ったのである。デモクラシーの超イデオロギーは全領域において統一的なイデーによって構築されており,イデーと価値づけの問題については,怒鳴り合う声がシュプレヒコールに変わった。成功せるデモクラシーの多くの国では,共産党すらためらいながらもこの(価値)共同体に参加することによって,連帯の強さが際立っている」③。ここで,「成功せるデモクラシー」「調和的デモクラシー」の本
質としての「超イデオロギー」の立場が,多様なイデオロギー闘争の根源となった低次の「価値づけ」の次元を超出しながらも,それ自体「同じ規範」「統一的なイデー」に基づく高次の「価値づけ」によって,つまり政党のイデオロギー的相違を超えて,つまり主要政党のすべてに共通な一定の「価値づけ」に基づく新たな「価値共同体」を積極的に構築するものであることを証言しようとしているのは明らかである。
  それでは,「デモクラシー・防衛・社会改革政策」という三つのイデーを主要政党共通のプログラムとしっっ,新たに各政党の合意と連帯の上に成り立つという意味でのこの超イデオロギr的・デモグラティ・ックな「価値共同体」として,ティングステーンは具体的にどのようなものを想定しているのであろうか?
  現代スウェーデンにおけるデモクラシー論争を取り上げた著作において,独自の視点からティングステーンのデモクラシー論を分析したB.0.ポストレームは,ティングステーンのデモクラシー概念の特質の一つが「価値共同体」のイデーにあることに留意し,こんなふうに述べている。「価値共同体という確かな尺度をティングステーンはデモクラシー存在の必要不可欠の制約と見なしている。ティングステーンがこの価値共同体を完全にデモクラシーの前提と考えていることは疑いない。しかし,この価値共同体の性格はいささか不明瞭である」ω。だが,ボストレームによれば,この「価値共同体」という表現には特別重要なイデーとしては次のごときものが含まれているという。「社会集団」「集団共同体」とその「客観的性格」,および「共通の価
値づけ」というデモクラシー固有の議決形式の採用に対する同意,さらに何が重要な政治内容なのかを見る見方に対する同意,である。そして,これら二つの同意は,デモクラシー成立の「最低条件」と見なされなければならない。ボストレームの見解を総括すれば,二つの同意を必要不可欠の制約として成立する客観的な社会共同体,つまりティングステーンの「価値共同体」をボストレームはほぼこのように把握していると言って差支えないであろう。そして,ボストレームは続いてこんな問いを発している。「このような価値共同体が存在するなら,デモクラシーが成立するためには,この他に物質的な価値共同体が必要とされるのではないのか?」(5)。換言すれば,ここでボストレームは,「物質的な価値共同体」(den materiella vardegemenskapen)
という「デモクラシー成立に対するこの最大限のギャランティ」が存在しないなら,政治的決議に対する国民の合意は決して十分には得られないであろうと主張しているのである。そして,同時に,「デモクラシーは,ティングステーンによれば,少数派への配慮を前提としているが, .彼が少数者への配慮がデモクラシーの一部と考えているのか,それともその前提と考えているのかを決定するのは,ここでは価値共同体の問題よりももっと難しい」⑥というポストレームの所見は,ティングステーン自身にも物質的な価値共同体」というデモクラシーに対する「最大のギャランティ」の問題が不明瞭に留まっていると解釈していることを示唆している。
しかし,私見によれば,.この問題に対するティングステーンの応答はむしろ自明的なものとして彼のデモクラシー論の中に発見しうる。例えば,『イデーから牧歌へ』においてこのように言われている。「調和的デモクラシーは本質的に福祉国家の政治的な形態と見なすことができる。しかし,この相互関係は完全ではない。福祉国家が含む富裕・安全・計画化・社会改革政策という尺度なくして幸福なデモクラシーに出会うことはないが,幸福なデモクラシーとは呼べない福祉国家はさまざまな仕方で存在している… … もっとも,政治的形態と経済一社会的結果乃至原則との分離は原則として不可能である」⑦。もちろん「福祉」(valfard)や「福祉国家」(valfardsstat)に関するティングステーンの本格的な見解を質すためには別個の作業が必要では
あるが,この引用文から見るかぎり,ティングステーンが,その基本的な「尺度」あるいはイデーとして「富裕・安全・計画化・社会改革政策」を含む「福祉国家」の概念を上位の類概念と見なし,「調和的デモクラシー」をそれに包摂される下位の種概念の一つとして把握していることが分かる。そして,この種概念にはさらに「調和的デモクラシー」即ち政治的形態のデモクラシーの同位概念として,ティングステーンのいわゆる,「経済的デモクラシー」がさらに加わると考えられていることが推察しえよう。かくて,この「経済的デモクラシー」こそ,ボストレームの言う客観的・社会的共同体の義での「価値共同体」に対する「最大限のギャランティ」たる「物質的な価値共同体」に他ならないであろう。こういつた考察からわれわれは,ティングステーンが「価値共同体」と称するものを,結論的に,「政治的デモクラシー」(den politiska demokratin)と「経済的デモクラシー」(den ekonomiska demokratin)の二形態を同位概念的に包摂する「福祉国家」として発見・規定したいと思う。
  翻って言えば,ティングステーンにとって最も厳密な意味における「福祉国家」とは,従来の伝統的な価値づけをめぐって政党間に生起した激しいイデオロギー的対立と抗争が死滅し,改めてそれを超えた次元において「富裕・安全・計画化・社会改:革政策」という基本理念への超党派的合意と価値づけに基づきっつ,政治的・経済的な二つのデモクラシーを包摂する新たな価値共同体を意味するのである。その浩潮な著作活動にもかかわらずティングステーンには独立した福祉論・福祉国家論ともいうべきものは存在しないが,彼の全著述活動の重要な意義の一端は,政治学者・ジャーナリストとしての立場から,このような真の意味での「福祉国家」成立の超イデオロギー的根拠を徹底的に解明しようとした営為に見出だすことができよう。このような
解釈を根拠づけうる見解がすでに「デモクラシーの問題』にも登場していることを推測せしめるのが,ティングステーンの以下の陳述である。「両大戦間の時期に国民統治を陥れたごとき経済的・政治的危機に対する恐怖は,デモクラ.シーに対する脅威として登場するコミゴニズム体制との競争と相侯って,総じて成功を納めたデモクラシー内部でも,生存しうるためには,さまざまな領域内の対立を制限するように自覚的に努力するためには,デモクラシーは連帯と価値共同体を要求することを認識せしあた。デモクラシーは万人の受容する超イデオロギーとなった。国家防衛・包括的な社会政策と相当な程度の国家による計画化も,同様に,デモクラシー諸政党の活動の共通の出発点となった。多くの現代デモクラシーにおいては,福祉国家が大多数の者にとって目標となったのである」⑧。
  かくて,ここから「成功せるデモクラシー」「調和的デモクラシー」と言われる場合,既述のごとく,それは一面ではナチズム・ファシズム・コミュニズムによって脅かされることのない強力な価値共同体を有する政治体制を意味するとともに,このような政治体制は最も厳密な意味では「福祉国家」の形態としてのみ実現しうることを告知しているのそある。だが,『イデーから牧歌へ一成功せるデモクラシー』という書名によっても示唆されるようティングステーンがこのような「福祉国家」として成就さるべき「調和的デモクラシー」を,対立的なイデオロギー的価値づけの時代以前の政治状態への,つまり「牧歌」(idyll)の状態への回帰として把握するという姿勢は,彼のデモクラシー論のいま一つの重大な側面を物語っている。それは「調和的デモクラシー」の完成がイデオロギー国家から福祉国家への移行を絶対の制約とするという第一義的な側面の他に,ティングステーンがデモクラシー国家・福祉国家をめぐる現代の政治状況の中に「牧歌を覆う影」(skuggor over idyllen)の存在を認知しているという側面である。この「影」の部分に敢えて一節を費やして精密な考察を加えている点が,『イデーから牧歌へ』という著作をティングステーンの他の著作から決定的に異ならしめる特質である。そして,ティングステーンは現代デモクラシーの福祉国家を覆う「影」として挙げるのは,なかんずく経済的不平等・民族・国籍・社会階層間の差別・世界の福祉国家への転換による安全な国際的秩序,これら3問題に対する真の解決の不在である⑨。
①Tingsten,H.:Demokratiens problem,p.154.岡野訳,『現代デモクラシーの諸問題』203-4頁。    Stability and vitality in Swedish Democracy,p.147. Fran ideer till idyll,s.16
②Tingsten,H.:Fran ideer till idyll,s.42.
③ibid.s.42.
④Bostr6m,B.0.:Samtal om democrati,s.152.
⑤ibid.s.153.
⑥ibid.s.153.
⑦Tingsten,H.:Fran ideer till idyll,s.43.
⑧ibid.:Demokratiens problem,s.153.岡野訳,202頁。
⑨ibid.:Fran ideer till idyll..ss.48-54,

  *以上文中のスウェーデン語アルファベットの表記には、筆者のPC操作上の未熟さによる不備がある。
   御容赦をお願いしたい。

   (明治大学「政経論叢」第67巻 第1・2号 1998年11月)

2009/12/27

定年雑記

        「流れ木のごと」
  [Ⅰ]
 時期的に新設大学が続々誕生していた背景もあったので、就職の厳しい現在と違って、博士課程修了後直ちに地方大学に倫理学・ドイツ語担当の専任講師として就職でき、しかも毎日の出勤を要せず、「研究日」という名の休日に恵まれた職場ではあったが、それでも遠距離から新幹線や特急を使っての通勤は大きな時間的ロスであったし、さらに通勤費捻出のために多くの非常勤のコマをこなさなければならない苦労は、それなりに大変であった。週に十六コマ以上も担当して東奔西走できたのも、若さの特権であったろう。八年後首都圏の大学に移ってからもオブリゲーションのコマ数が多かったために、その意味での忙しさにはさして変化はなかった。週の担当コマ数が十を割ったのは、定年を迎える年の一年間のみであつた。また赴任と同時に新しい住居を郊外に求めたために、専任校・非常勤先まで毎週少なくとも四日以上、片道通勤時間二時間乃至二時間半、しかも少なくとも週三日は睡眠時間三乃至四時間といった生活を、ほぼ三〇余年間も続ける仕儀にもなってしまった。そういった事情で、職業柄確かに多くの自由時間に与る恩恵に浴しはしたものの、それでもこんな生活が四十年間近く続いてみると、さすがに心身ともに疲労感激しく、もはや外に出て人前で喋る気力も失せてしまった結果、古希の定年退職後は専ら引篭もり生活が続いている。そういうわけで、退職してからの二年間の生活の大筋を、小学生時代の夏休み日記帳風に書けば、「毎日勉強し、犬と散歩して、ときどきは庭仕事を手伝い、カラオケに行きました」とをいうわずか三六文字で事足りることになる。そこで、元の職場の機関誌『政経フォーラム』編集部の求めに応じてOBとしての近況を語るということになると、結局この三六文字の内容を若干引き伸ばしながら解説するという、何とも無味乾燥なものになってしまうが、お許し頂きたいと思う。もっとも、このブログに書き込むに際しては、元の原稿にかなり加筆したので、提出した近況報告とはかなり異ったものになっている。

  [Ⅱ]
  引篭もりは疲労も一つの理由ではあったが、実は自らの怠惰・怠慢の証明にもなりかねないのであまり表立っては口外できる話しではないものの、そこにはもっと大きな隠れた理由があった。というのも、在職中にとっくに片付けておくべきだった翻訳の仕事を、いろんな事情で退職後に残してしまい、これを可及的速やかに完了しなければならないという切羽詰った状況に追い込まれていたからある。定年直後から一年半をほとんどこの仕事に費やした結果、幸い訳了、注作成の作業も終えて発行元に渡した。2010年早々に刊行との最終報告を受けている。
すでに故人であるが、恩師が企画したデンマーク語からの直訳による『原典訳記念版キェルケゴール著作全集』十五巻の内、恩師担当の『不安の概念』とわたしの担当したキェルケゴールの二つの作品(『畏れとおののき』『受取り直し』)の訳を収録した第三巻が、わたしのルーズさゆえに最後の発刊になってしまったわけであるが、周知のように「古典」と言われる文献の翻訳については固有の煩雑さがある。キェルケゴールというデンマークの思想家の場合も、初版を別にしても本国では現在最新の知見に基く完全新版とも言うべき第四版が刊行中であり、さらに個人的に編纂・発行した各種の刊本も存在する上に、いろんな他言語による翻訳がある。そのために、日本語訳に際しては、基本的には最新版原典を中心として数種類の刊本に対する目配りが不可欠なのと、翻訳作業の現場ではやはりどうしても他言語訳を参照せざるをえないのが実情である。こういった点に配慮しながら、何とかキェルケゴールの上記二つの作品の翻訳を終えるとともに、原典と他言語訳に付された七種類の注釈その他多くの資料を用いて註解作業を行なった結果、この註解の部分が本文訳の半分以上の量になってしまったものの、わたしの作成したこの註解を参考にしてもらえれば、二作品を読むのに原典・他言語訳本の何れの注釈にも頼らなくて済むところまで漕ぎつけられたと考えている。なお上記著作全集第十巻には、若手の研究者とわたしの共訳で、キェルケゴールの大著『愛の業』が収録されている。
こうして在職中からの最大の積み残しはやっと片付けたものの、実はまだ果たしていない共訳の約束が三つもあり、自業自得の結果とはいえ、この約束を果たさないかぎり本来の自分の著作活動に立ち帰れず、先行き有効時間が極めて限られているわたしにしてみれば、焦燥感は強いのであるが、だからといって翻訳・著作活動とも決して粗雑な仕事に堕すことのないように全身全霊を傾けるつもりでいる。たとえどのように貧しい研究成果ではあっても、手っ取り早く安っぽい読み物に纏める気持などはさらさらなく、あくまで本格的な論稿に仕上げることを念願としている。とはいえそのための財政的負担を考えるとき、暗澹たる思いに沈まざるをえないのは致し方ないものの、正直筆先が鈍るのは避けようもないのである。 かつて思想関係のある出版社の編集長から聴かされた言葉として、営業上は内容・形式ともに儲かるタイプの本も発行せざるをえないが、出版社として真に刊行したいのは、「巨岩を鑿でえぐるような研究成果だ」というのがある。以来わたしの脳裏にはこの言葉が強いトラウマとして残り、同時にまた仕事上の大きな励み・指針としても生き続けている。もっとも、これまで評価も売れる見込みも立たないままに上梓した拙著が、編集長の要請を満たしているという自信は皆無ながら、少なくともわたしなりにそれに答えようとした懸命な試みの一端だということは、躊躇なく言えると思う。

  [Ⅲ]
  老人特有の発言になることをお許し頂きたい。昨今都会の中高年層の間では墓地確保が切実な関心事になっているとのことであるが、反面ヒット曲「千の風にのって」の冒頭で、「私の墓の前で泣かないで下さい、そこに私はいません」と唄われたために、墓地への関心が薄くなったというある寺の住職の歎きを、某紙の投書欄で読んだことがある。「墓に私はいません」、この感性に実はわたしも大いに感動し、心から共感するものである。正直に告白すれば、この曲のメロディーと詩に初めて接した時、わたしが包まれた名状し難い透明な清澄感・開放感は、キェルケゴールの主体的真理観に躓いて久しく研究の暗闇の中を彷徨っていた際に、スウェーデン・ウプサラ学派の創設者アクセル・ヘーゲルストレームの掲げる「subjectivityは真でもなければ非真理でもなく、およそ真偽判断の対象たらず」という「価値ニヒリスム」のテーゼに遭遇した時の激震に連なるものがある。わたしは「不肖の弟子」と名乗ることすら憚られ、文字通り「落ちこぼれ」でしかないのであるが、学生時代から畏敬してやまない三人の恩師は、すでに故人ながら何れも偉大な宗教哲学者・研究者として国際的に尊崇を集めている碩学である。しかし恩師ののように宗教を「ニヒリスム克服」の手段として把握するのではなく、まさに反極的に「ニヒリスムそのものの最深の現象」として受け留め、したがって宗教からの脱却こそニヒリスム超克の道と解しつつ、なかんずく伝統的な有神論的宗教哲学の解体を本来の宗教哲学固有の課題と見なすウプサラ学派の「価値ニヒリスム」の立場に深い共感を寄せるわたしごときは、不肖の弟子・落ちこぼれどころかむしろ「忘恩の徒」と呼ばれて然るべきであろうが、にもかかわらず「千の風になって」の詩想と「価値ニヒリスム」の思想との間に、心情的にも理論的にも深い連関を発見し、両者の内に既成宗教のさまざまなくびきからの解放による人間の内在的な自由の回復への激しい要請を看取せざるをえないのである。なお、わたしのウプサラ学派の価値ニヒリスム理解については、ブログの「研究業績」欄に記載した拙著を参照して戴ければ幸いである。
  しかし、このように主張したからといって、日常の慣習的な場面でわたしが伝統破壊的行動を専らにしているというわけではない。死者の「霊」にとって宗派的・階層的区別のごときは所詮真の慰霊の念とは無縁の世俗的・人為的捏造に過ぎないと見なすわたしとしては、このような自らの「信」に基づいて、わが家の同じ一つの仏壇で宗派・宗教の異なる三つの位牌をまつるという「非常識」を犯してはいるが、仏壇の前での毎朝の心を込めた勤行はやむをえない場合以外欠かしたことはないし、時節ごとに遠隔地の郷里に眠る祖霊への年四回の墓参も怠ったことはない。団塊の世代をはるかに超え出た年齢のわたしではあるが、イデオロギー的には「千の風になって」の反極に位置するものの、名曲「吾亦紅」に涙する感性も決して失ってはいないつもりである。ただ近々必要となるであろうわたし自身の「墓」をどうするかについては、既成宗教の方式からの脱却はまさに願うところであるが、難問は、京都の大寺院の門前町で育ち、すでに自らの生前墓も建立し、海外では異色の宗教画家として注目されている家内の説得である(リンク先「尾崎邦恵ギャラリー」を参照されたい)。

  [Ⅳ]
  もっとも自分の「墓」ということでは、わたしとしては独自の考え方を持っている。研究者にとって本質的な意味で「墓」たりうるのは著作のみであり、著作以外に真に研究者の魂を宿す墓たりうるものはないと確信しているからである。そして仮に主著に当るものが墓地中央に敷設されるメインの「墓石」だとすれば、他の著作はいわばそれを取り囲む各種の「墓標」と言いうるかもしれない。だからこのような意味での墓石・墓標というのは、本人の死亡後肉親等によって奉献されるモニュメントのことではなく、いわば生前墓のように研究者本人が自分自身の生霊に捧げるために建立する死亡証明ならぬまさに存在証明のごときものと言えるかもしれない。少なくともわたしは、まことに拙いものではあるが、これまで上梓した自分の著作類についてはそのようなものと解している。問題なのは、真に中央の墓石と呼ぶべき業績が果たしてこれまでの著作活動の中で産出できているかどうかということであり、また残された人生において果たして何本の墓標を建立しうるかということである。何れもが疑問だらけで、心細さも半端ではないが、一応予定している研究・著作計画を若干なりとも前進させることによって、できうればより高質の墓石と新たな墓標の建立に繋げたいと考えている。さらに傲慢不遜な言い方をすれば、他人の評価などに意に介することなく、信じる道を真っ直ぐに突き進んで自分自身として納得しうるような仕方で墓石・墓標の創建に取り組むことが、そのまま自分の生き様であり、また死に様だと考えている。その際すべての墓石・墓標に刻み込む共通の碑文は、「(神話的なものをも含む)宗教的なものとは何か」、そして「北欧的なものとは何か」という二つの問いであって、一見直接には結びつきそうにもない両者を同じ研究基盤の上で総合統一することによって、そこからオリジナルな結論を導き出すことが、わたしの目指す独自な方向性である。

  [Ⅴ]
   したがって何とも戯けた笑い話になってしまうが、わたしの言う墓標の建立には墓標の主の健康が第一条件になる。幸いわたしは現在のところ小康を得ているが、これに大きく役立っていると思われるのが、三〇年近く基本的に毎日続けている朝夕四十分づつの愛犬との散歩である。わが家は東京方面から九十九里方面にぬけるバイパスが住宅地の真ん中を走っている地域にあるが、不埒な無責任行為に走るのにはうってつけの場所なのか、四月・九月の転勤・移動の時期には捨てられ、放置されたペットに出会う率が高くなる。そしてかく言うわたしの愛犬第一号も、成犬で捨てられて捕獲される寸前に危機一髪わが家に逃げ込んできたコリー犬である。家族の一員になった十二年目に白内障が進み、耳も遠くなっていた矢先ついに天敵フィラリアの犠牲になってしまったが、人間の寿命では優に百二十歳を超えていたはずである。それから間もなく、ゴミ・ステーションから拾われてきたハスキーの雑種の子犬が愛犬第二号になった。この子犬もすでに十三年が経つので、犬年齢では百歳以上の高齢になっているが、元気に飼主の健康を守ってくれている。ただ最近頬の一部に老犬特有の皮膚病の一種を発症し、完治は難しいとの獣医の宣告で、健康を守ってもらっている飼い主としては心を痛めている次第である。

  [Ⅵ]
  机に座ることと散歩は基本的に毎日のルーチンワークあるが、時にはどうしても果たさなければならないオブリゲーションが庭仕事である。日頃は専ら家内に任せっきりではあるが、広さが百坪(330平米)以上あるので、ほぼ定期的にわたしも駆り出され、これが相当な労働量になる。確かにたっぷり植わった庭木の緑と風情は、心身や眼の疲労を癒してくれるのにはうってつけであり、中秋の月見の宴を豊かに連想させるススキの穂の見事さに感銘して、その大株の根っこを引き抜く作業をついつい中止して穂を残すといった、加賀の千代女的風流心に誘われる場合もないわけではない。また家を挟んで庭の反対側には五本の桜の大木と二十数本の椎の大木があり、四月にはさながら家全体が花吹雪に覆われるが、落葉の季節には大変な量の枯葉とどんぐりの実の片付けに追われるが、しかし大きな竹箒でそれらをゆっくりと山盛りに集めてゆく趣きは、生まれ郷里の山里の思い出とも重なって決して悪いものではない。また新緑から夏場にかけての雑草の成長ふりは物凄く、その駆除は大変な苦労ではあるが、こんなふうに雑草と格闘することができるのも、確かに定年生活の有難さというものであろうと実感している。さらにこの時期わが家の桜と椎の木立には一羽の鶯が棲み付いているらしく、一日中聞かせてくれている見事な囀りに改めてじっくり耳を傾けることができるのも、定年後初めてである。真夏には深夜にも及ぶセミの合唱がすさまじい命の迸りを感じさせてくれるが、これも田舎独特の季節感ではある。木立の間から霞んで見える東京湾の遠景もきれいで、またわが家から歩いて十分のJR駅に向かう途中には小さな神社があり、この神社の脇を下っている坂道からは東京湾の彼方に遠く聳える富士山の見事なシルエットも見られ、三十余年間にわたる通勤にはいささか無理な仕方で体力と時間を使いはしたが、わたしなりに自然の風情豊かなこの環境が気に入っている。

  [Ⅶ]
  中年になって無熱肺炎のため禁煙し酒は生来の下戸とくれぱ、わたしの場合恥ずかしながら趣味として残るのはわずかにカラオケぐらいのもであるが、これには少年期のある苦い思い出が繋がっていると思われる。
  わたしは中学・高校と神道系の学校に学んだが、終戦後間もない中学二年二学期の音楽の成績に[1]という落第評価をもらったことがある。自分が特別悪餓鬼だという意識もなかったので、この成績はやはりショックではあったが、この酷評に対して思い至る唯一の理由としては、音楽鑑賞の時間に聴いたクラシック(どういう作品だったかはまったく記憶にない)について書いた、「神々が去ってゆくのを人々が歓呼しながら見送っている」といった感想文の内容が、学校の設立精神でもある神道宗教の熱心な信者であった音楽教師の逆鱗に触れたのではないかということしか思い浮かばないのである。恐らく前夜に見た備中神楽の冒頭に登場して天孫降臨の露払いの役割を演じる二人の猿田彦命の勇壮な荒舞にすっかり魅せられた感激の余韻がこういう感想文になったと思われるのであるが、しかし今にして思えば音楽教師は、神々の神話世界に対する小童の単純幼稚な感動の吐露の中に、ひょとしたら日本神話や神道思想からすれば異質で危険極まりない北欧神話的な「神々のこの世からの退去」と、それに対する不埒極まる喜びの表現といった匂いを嗅ぎ取って憤慨したのでは、というのが正直な感想である。
  とはいえもともと終戦直後の田舎育ちで高尚な外国音楽に接する機会も才能も欠落していたわたしにとっては、この強烈でショッキングな体験は、成人になつてもクラシック音楽というものに対する一種の「恐怖感」「嫌悪感」というトラウマとしても残り続け、結局音楽趣味も叙情演歌中心のカラオケ一本に絞られることになってしまったわけである。とはいえこのような否定的な音楽体験が「神話的なもの」への関心を保持する上で大いに役立ち、後年北欧神話を主題とした博士論文を完成するきっかけとなった最初の動機は、この悲惨な体験にまで立ち返ることができるかもしれない。もっとも音楽に対する歪んだ傾向はこれに留まらない。
  不惑を過ぎながら研究の方向に悩んで、哲学のいわゆるオーソドックスな領域とテーマの追究を目指すべきか、それとも敢えて北欧精神史・思想史研究といったマイナーな分野に重点を置くべきか迷っていた時に、高名なマルクス研究者から「北欧の思想など所詮はゲテモノではないのか」と言われて、目から鱗が落ちるような感じで、ようやくこのマイナーなゲテモノの研究に専心する決心がついたが、このように研究主題の選択のみならず、ペット飼育の際にすら頭を覗かす、顧みられないもの・見捨てられたものに変に執着するというわたしの異端的な気質が、ひょっとすれば最も露骨に現れるのがカラオケに行った時かもしれないのである。通常なら一流歌手によつて歌われている「はやり」歌を唄うのであろうが、わたしの場合いささか違っていて、敢えて作詞者・作曲者とも知名度が低く、歌手にいたってはまったく無名で、カラオケ・ナンバーにもせいぜい一・二曲しか載っていない、時にはすでに廃盤になっているような曲を、その場でメロディーを覚えて唄うという一風変った、しかしわたしにしてみればこれに勝る醍醐味はないのではないかと思われる楽しみ方である。そういうふうにして自分流にマスターした無名曲はかなりの数にのぼる。もっともこのような私流のカラオケ道に反し、評判曲「千の風になって」とその理念とは対立する評判曲「吾亦紅」及び「群青」の三曲は例外的に愛唱している。
  最近唄い出したのが、夕刻愛犬との散歩の途中時々遭遇する東京湾を越えて富士山の彼方に沈んでゆく夕陽の鮮烈な印象に引かれてピック・アップした、多数存在する「落日」という曲の中の一つである。ただしこの作品の作詞・作曲はわたしにとっては例外的に現役で活躍中の「大家」の手になるもので、歌手は華やかな活動こそ目にしないものの、いわゆる玄人好みの知る人ぞ知る男性歌手である。「ふるさと遠く 海の落日、 渚を行けば 流離の愁い、名も上げず 身も立たず、 流れ木のごと 朽ちるものあり・・・・・」というのが、冒頭の歌詞である。この歌詞に引かれる理由は、何と幼稚で安っぽい感傷かと軽蔑されようが、歌詞内容がついつい自分の人生の来し方行く末に重ね合わさって、痛切にわが身を振り返らせてくれるからである。はるか故郷の地を捨てて晩年を迎えながら、名も上げられず、身も立てられないわが身の腑甲斐なさに、改めて情けない思いを掻き立てられるのである。とはいえ自分がどんな墓標を何本完成しようと、それらが所詮「流れ木」にすぎず、いずれ水中に沈んで朽ち果てるのは必然の定めと覚悟しているから、「流離の愁い」といったロマンティックな洒落た気分はそこにはない。それでよし、悔いるところなし、というのが率直な気持ちではある。ニーチェの「ツァラツストラ」の言葉をもじって言えば、「かくの如きが人生か、さらばいま暫し」ということになる。ニーチェのように「いま一度」は必要としない。一回限りの「今生」のみで十分である。ただ朽ち果てるその時までに、「流れ木」に刻んだ小さな経文に目を留めてくれる人が僅かでも現われてくれればというのが、せめてもの願いではあるが。
  そうはいっても、庭の小さな書庫に入って、墓標作成用の、だが未使用の膨大な資料を前にする度に痛感せざるをえないのは、これまで為すべきことを為してこなかったおのれの無力と怠慢のつけの大きさである。そして、わたしのかかえる「ゲテモノ」としての専門領域のある種の特殊性に伴う困難さがあるとはいえ、今後これらの資料をわたしに代わって利用しつつ、思想史・精神史を中核とした「北欧学」の確立というわたしのライフワークの主要目標の一つをさらに大きく飛躍・前進させてくれる後継者を養成できなかったことは、やはり残念無念としか言いようがないのであるが、しかしいまさらどうしようもなく、今後も老残の身に鞭を入れつつ、ひとりこの新たな学の開拓と確立を目指して孤独な道を歩まざるをえないことを覚悟している。
  大学教師になってからの三八年間の生活を振り返るとき、苦い体験も含めて、与えることよりも与えられることの方がいかに多かったかに思い至らざるをえない。長い年月の間恵まれた環境の中で教育・研究の場を享受しえた幸運を思うにつけ、関係機関に対しいま改めて衷心より感謝するものである。筆者に残された課題は、この感恩の念を残された時間を通して自らの研究のさらなる進捗へと結びつけることであると確信している。
  (明治大学政治経済学部 『政経フォーラム』 Nr.25, 2008.03)

2009/02/28

北欧学の主題-[Ⅱ]北欧環境思想の視座ー[北欧神話」から「ディープ・エコロジー」へ

  [Ⅰ]北欧と環境問題 

  「北欧(諸国)」(Norden)とは一般にデンマーク(Danmark,Denmark)・ノルウェー(Norge,Norway)・スウェーデン(Sverige,Sweden)・アイスランド(Island,Iceland)・フィンランド(Suomi=湖沼の国,Finland=フィン族の国)五カ国に対する総称であり、前四カ国はさらに「スカンディナヴィア」(Scandinavia)とも呼ばれる。一般に福祉大国としても知られる北欧諸国は、森と湖とフィヨルドや氷河・火山に代表される自然美の国々であるが、特にバルト海に直接するスウェーデンは、1970年代から対岸のバルト三国エストニア・ラトビア・リトアニア三共和国やポーランド、旧東ドイツなど社会主義諸国の垂れ流す汚染物質による環境危機の問題に直面してきた。冷戦構造の崩壊とともに沿岸各国の協力体制が整い、この問題に対して徹底した対策が講じられていものの、現在でも北欧諸国では「酸性雨」の問題などを筆頭にさまざまな環境危機が共通の課題として大きく取り上げられている。現代北欧諸国の抱える環境問題については、例えば川名英之著『世界の環境問題 第一巻ドイツと北欧』(緑風出版 2005年)に詳しい紹介がある。
  ただしここでの課題は、現代北欧に存在する現実のラディカルな環境問題を実証的に考察するのではなく、こういった問題に真摯に取り組むための根源的な動機が「神話」という形ですでに北欧人の精神的伝統の深層に存在していたことを指摘し、同時にこの神話的伝統を土壌として、現代の北欧、なかんずくノルウェーに「ディープ・エコロジー」(deep ecology)という現在世界環境思想をリードする先端的な環境哲学乃至環境倫理学が誕生しており、今後この環境問題に切り込むための重大な指標が提示されていることを示唆することである。
 
  [Ⅱ]「ヒュブリス(傲慢)—ネメシス(復讐)—環境危機」ー 現代文明論

  2003年に亡くなった世界的な論理分析哲学者、フィンランドのフォン・ヴリークト(von Wright, Georg Henrik)は、「環境危機−これこそわれわれを脅かす自然の復讐(nemesis)なのだ」(Den ekologiska krisen - detta ar den nemesis naturalis som hotar oss)というテーゼによって、北欧神話を環境哲学乃至倫理学の視点から解読するための示唆を提供している。このことは、「現代のテクノロジカル・ライフスタイル固有のヒュブリス(hybris)は自然からの固有のネメシスによって報復されることになる」とも表現されている。なおフォン・ヴリークトによれば、「進歩発展と結びついた一般的なオプティミズムは、科学とその応用の進歩、換言すればテクノロジーの進歩が、大概は人類に対してプラスに作用するという仮説に基づいている。このような考え方には非常な疑問があり、私見によれぱ間違いでさえある」が、「技術帝国主義」(technical imperialism)という進歩発展の危険な未来像の根底には、キリスト教による自然疎外の理念が存在する、つまり「キリスト教信仰によって西欧諸国のわれわれには、自分たちが被造物の主であるという強烈な直観がある。その結果われわれは自分の目的のために自然を利用する権利が認められているということになった。だが、そうなれば人間と自然との根源的な均衡は廃棄されてしまう。人間は自然から疎外され、もはや自然の一部ではなくなるのである」。こういったキリスト教信仰の抱懐する致命的な誤認を克服して現代の環境破壊の危機を克服する道は、いま一度「自然は従われるべし」(Naturen bor folges)というギリシァ的な自然−人間関係に立ち返って、例えば身体の病のみならず、道徳的堕落・国家の腐敗・社会的不正義なども本質的に「自然への背反」に他ならず、これらはすべて自然を模範として修正されなければならないことを自覚しなければならない、とフォン・ヴリークトは言う。このようなギリシァ的見解は、ルネッサンス時代のイギリスの哲学者フランシス・ベーコン(Bacon, Francis 1561-1626)の「自然は従うことによってあらずんば征服されず」(Natura non vincitur nisi parendo)によって表現されている。これは「自然のコントロール」はあくまで「自然によるコントロール」を無制約的に前提とするということである。しかし、フォン・ヴリークトは「挑戦的ペシミズム」(provokativ pessimism)の立場に立って、研究の進歩・新しい技術・市場経済力の自由な競争を絶対とする「無気力な間違ったオプティミズム」の克服は、現在人類の置かれた状況を冷静に観察して落ち込まざるをえない絶望を体験することなしには不可能であつて、「人間が苦難と試練を通してのみおのれの生き方を変える知恵を獲得できる」ということを真に自覚しうるか否かに、今後の人類の運命がかかっていることを指摘するのである。以上の点については、拙稿「環境哲学序説−G・H・フォン・ヴリークトにおけるヒューマニズムと環境危機」(金子・尾崎編『環境の思想と倫理』、人間の科学社 2005年、第一章)において詳論している。

  [Ⅲ]「北欧神話」の環境論 ー 宇宙創造論と終末論の意味

  しかしこのような「ヒュブリス−ネメシス−環境危機」、そして絶望と苦難を通しての「自然のコントロール」と「自然によるコントロール」との 調和的統一というフォン・ヴリークトの図式に基づく環境哲学の立場が、10世紀前後アイスランド乃至ノルウェーで成立した北欧神話の中に、固有の異教的終末論・没落論の中心概念「ラグナロク」(ragna-rok神々の運命・死)の理念によってすでに先取されており、古代北欧人の神話がすでに極めて現代的な環境哲学・環境倫理学の契機を内包しているという事実は注目されなければならない。

  A)宇宙創造論(cosmogony)に見る精神原理の「ヒュブリス」— 過去
  太古存在した巨大な奈落の深淵「ギンヌンガガプ」(Ginnungagap)の中で霜と熱風がぶつかってできた滴から誕生したのが人間の姿をした最初の生き物、最も原初的な物質的自然原理を象徴する原巨人ユミル(Ymir)である。さらに、それから二代にわたる巨人族の系譜を経て「オージン・ヴィリ・ヴェ」(Odinn.Vili.Ve 霊・意志・聖性)という精神原理としての神々が誕生する。そして、この神々は彼らの曽祖父ユミルを殺害し、その屍体から宇宙を創造する。「ボルの息子たちは巨人ユミルを殺した。彼らはユミルの死体を奈落の口の中に運び、それから大地を作り、その血から海と湖を作った。つまり、肉から大地が、骨から岩が作られ、歯と顎と砕けた骨から石や小石を作った。また彼らは彼の頭蓋骨から天を作った」。
  解説=北欧神話の語る衝撃的な事実の第一は、このように精神現象を司る三柱の神々(アース神族)の父祖が、純粋に物質的な存在原理としての原巨人ユミルであり、したがって「精神」は根源的に「自然」を母体として誕生したということである。これは、巨人族とアース神族、自然と精神とは根底においては一つであり、両者間には本質的にいかなる分裂・乖離も発見しえないという意味である。だが、純粋物質的原理としてのユミルと、純粋精神原理としてのアース神族との血族関係が一挙に破壊される宇宙論的瞬間が訪れる。後者が前者を殺害し、その屍から宇宙を創造する瞬間である。そして、北欧神話における第二の衝撃的な事実としての一種の忌むべき尊属殺人とも言うべきこの行為こそが、北欧神話の次元では、先の「ヒュブリス−ネメシス−環境危機」の図式における「ヒュブリス」の契機を構成していると見ることができるのである。

  B) 終末論(eschatology)−「ラグナロク」表象にみる自然原理の「ネメシス」−未来

 復讐劇の前哨
 ○運命の告知「海から三人の物知りの娘がやってくる。一人の名はウルズ(過去)、もう一人の名はヴェルザンディ(現在)、三人目の名はスクルド(未来)」。
○天変地異「うち続く幾夏かは太陽の光りは暗く、悪天候ばかりとなる。
○道義の退廃「兄弟同士が戦い合い、殺し合うであろう。親戚同士が不義を犯すであろう。この世は血も涙もないものとなり、やがてこの世は没落するであろう。

 復讐劇の開始
  ○破壊者・巨人たちの来襲の決定的場面「スルト(炎の国を支配・警護する大巨人)は南から枝の破滅(火)をもって攻め寄せ、戦さの神々の剣からは太陽が煌く。岩は崩れ落ち、女巨人は倒れ、人々は冥府への道を辿り、天は裂ける」。
  ○神々と巨人の死闘「オージンが狼(巨人族の象徴的存在)に戦いを挑み、スルトを相手にまわすとき、そこで倒れるであろう」。

  復讐劇の完成 
  ○劫火に包まれて崩壊する宇宙「太陽は暗く、大地は海に沈み、煌く星は天から落ちる。煙と火は猛威を振るい、火炎は天をなめる」。              
  解説=三柱のアース神による父祖ユミルの殺害と天地創造という原罪的行為によって表現される「ヒュブリス」、それに対して巨人の娘、運命の乙女の来訪を通して、神々に彼女たちへの無条件的服従を要請するのが「ネメシス」の最初の具体的内容であり、いわば復讐劇の第一幕の舞台構成である。しかも北欧神話の構造の上では、これらは過去の出来事として述べられているのに対し、憎悪・虚言・永劫の死を象徴する三種の最強の悪魔的巨人(フェンリル狼・ミズガルズ蛇・ヘルFenrisulfr・Midgardsormr Hel) が他のさまざまな悪の力を引き連れて神々の国に来襲し、彼らとの間に激闘を開始することをもって復讐劇第二幕が斬って落とされる。だが、これによって巨人族のアース神族に対する逆襲、ネメシスが成功するわけではない。このラグナロクの世界最終戦争においては、火に象徴される善悪双方の原理を担うスルトが、神族・巨人族・人類すべてを包括する宇宙全体をその火炎によって焼き尽くすからである。一切が焦土と化したこのラグナロクの情景において第二幕は閉じられる。だが、スルトの放つ破滅の火は、本質的には「浄罪火」であって、そこにはこの世界炎上によつて神々と巨人たち、人間の罪と穢れは清められ、彼らの間に、つまり精神原理と自然原理との間に平和と和解の新たな世界・宇宙が開かれるという再生への契機が包摂されており、北欧神話において新たに第三幕として展開されるのはこの世界復活の場面である。スルトの憤怒の火炎を、そして現代世界のラグナロクをいかにして防御しうるか。それがまさにディープ・エコロジー最大の課題なのである。
  以上の点については以下のものを参照されたい、拙著『ディープ・エコロジーの原郷 ノルウェーの環境思想』(東海大学出版会 2006年)、拙論「北欧神話・世界没落論の意味するもの」『神話と現代』(風間書房 1997年、第三章)、拙論「北欧神話から北欧学へ」『ユリイカ』(青土社2007年10号)。

  [Ⅲ]「ビオソフィー ー エコソフィー ー エコ・フィロソフィー」
      ー現代ノルウェーにおける「ディープ・エコロジー」の視点

  実現不可能な「神秘主義」にすぎないといった批判を典型として、さまざまな攻撃にすらさらされながらも、現代世界環境思想をリードする「ディープ・エコロジー」の理念は、「シャロウ・エコロジー」 (shallow ecology)の理念に対立して提出されたものであり、後者が現在の文明や社会の存立を前提とする人間中心主義のエコロジー運動を意味し、特に先進国の人々の健康と豊かさの向上のために環境保護を主張する立場であるのに対して、前者は現代の社会システムと文明それ自体の変革を要求し、人間の利益とは関係のない自然的生命の固有価値を認め、環境のための環境保護を支持する立場である。そして一般にディープ・エコロジーはアメリカ・オーストラリア等英語圏の環境思想と考えられているが、その歴史的伝統乃至ルーツが北欧ノルウェーにあることは以外に知られていない。

  A)「ビオソフィー」(biosofi)
このような二つの異なったエコロジーの概念を提出し、それによって現代を代表する巨大な環境運動のうねりを形成したのは、先のフォン・ヴリークト同様論理分析哲学の大家として国際的に著名なノルウェーのアーネ・ネス(Arne Naess 1912− )であるが、彼を「ディープ・エコロジー」の思想と運動に駆り立てたのは、哲学研究上では「弟子」に当る同国最初の実存主義の作家ペーター・ウェッセル・サプフェ(Peter Wessel Zapffe 1899 - 1972)の提出した「ビォソフィー」思想の抱懐する悲劇的な人間本性論・過剰装備論であった。彼によれば、人間と環境との間には三つの基本的パターンがある。
  1,人間と環境との間に完全な調和関係が存在する場合、
  2,人間の能力と関心が環境の要求に対応し切れない過少装備の場合、
  3,人間の能力と関心に環境の方が対応できない過剰装備の場合。
  「過剰装備」とは、人間が生物として生きるのに必要な「感覚」以外に「知性・記憶力・想像力・感情」を始め、言語能力・芸術的能力を有することを意味し、人間がこの過剰装備によって自然界における「変種動物」「はみだし」「癌腫瘍」たるところに、没落と破滅を運命づけられた彼の悲劇的存在性がある。この悲劇性を克服する唯一の道は、人間の過剰装備の介入を赦さず、現代テクノロジーに対して物凄い否定の怒号を浴びせる「山岳自然」の野生と未開の中に人間存在の母なる原郷を発見することである。                            
  B)「エコソフィー」(ecosofi)
「ディープ・エコロジー」というターム自身ネスの命名によるが、彼は自らの「ディープ・エコロジー」をさらに「エコソフィー」と呼ぶ。そして、先ず「ディープ・エコロジー」の七個の一般的テーゼの内最重要なものを三つ挙げれば、
  1、人間を関係論的・全フィールド的イメージの中で把握する。環境という入れものの中に個々に独立した人間が入っているという原子論的見方を解体しなければならない。
  2、生命圏平等主義。「生き繁栄する平等の権利」を人間に限定するのではなく、 一切の生き物に承認しなければならない。 
  3、多様性と共生の原理。「生きて生かす」の理念。
  さらにネスが「ディープ・エコロジーのプラットフォーム(platform)」とも称する「エコソフィー」の八個の原理は、                                      1、地上の人間と人間以外の生命はそれ自体として本質的・内在的価値を所有する。
  2、生命形態の豊かさと多様性はこれらの価値の実現に貢献し、またそれ自体価値を持つ。
  3、人間には生存欲求を満たす以外に、これら生命の豊かさ・多様性を減らす権利はない。
  4、人間以外の生命の繁栄は人口の実質的減少を要求する。 
  5、今日人間以外の世界に対する人間の干渉は過剰であって、事態は急速に悪化している。
  6、それゆえ経済的・技術的・イデオロギー的構造に関わる政策変更が不可欠である。 
  7、物質的生活水準の向上に固執するよりも、生活の質を評価するイデオロギーの変革が必要である。   
  8、以上の七つの原理に同意する者は、必要な変革を遂行する義務を有する。     

  C)「エコ・フィロソフィー」(eco-filosofi)
  ネスの弟子シーグムン・クヴァーレイ(Sigmund Kvaloy 1934- )の「エコ・フィロソフィー」は、北米・ヨーロッパ・日本によって代表される「産業−成長−社会」と北極圏のエスキモーやヒマラヤ地方のシェルパ族を典型とする「生活−必需品−社会」とに区別する。前者は、環境・社会・精神等のあらゆる次元でのアンバランスを加速度的に増加させる一方、ストレス・暴力・社会的正義の欠落といった問題の発生原因と解決の手段を技術的・経済的なものの中に探り、社会的な絆が引き裂かれ、無意味な生き方が蔓延する「偽造世界」であり、環境破壊の元凶をなしている。これに対して後者は、自然資源とのバランスの中で生活する能力としての「外的安定」と、他者に対する誠実さと個性との融合を意味する「内的安定」、これら二つの安定の相互依存性を基礎として構築されている社会である。環境危機をどこまで克服しうるかは、「産業−成長−社会」をどの程度まで「生活−必需品−社会」に立ち返らせることができるかにかかっている。
  以上の諸問題については、拙著『ディープ・エコロジーの原郷 ノルウェーの環境思想』(東海大学出版会 2006年)において詳しく論じた。
                    (2008/6/12 明治大学政経学部総合講座)
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

2008/01/30

研 究 業 績

著作
『ディープ・エコロジーの原郷-ノルウェーの環境思想』

東海大学出版会 2006年。
『生と死・極限の医療倫理学-北欧スウェーデンにおける「安楽死」問題を中心に』
創言社
2002年。 
『スウェーデン・ウプサラ学派の宗教哲学-絶対観念論から価値ニヒリスムへ』
東海大学出版会2002年。
『北欧神話・宇宙論の基礎構造-《巫女の予言》の秘文を解く』
白凰社1994(京都大学学位論文)
『北欧思想の水脈-単独者・福祉・信仰‐知論争』
世界書院1994

その他。


翻訳

S.キェルケゴール:『畏れとおののき』『受取り直し』(キェルケゴール著作全集第三巻所収)
創言社
20085月刊行予定。
A.オルリック:『北欧神話の世界-神々の死と復活』
青土社2003年。 
S.キェルケゴール:『愛の業』(共訳、キェルケゴール著作全集第十巻所収)
創言社1991年。
S.キルケゴール:『野の百合と空の鳥』、(キルケゴールの講話・遺稿集第三巻所収)
新地書房1980年。
J.スレーク:『実存主義』
法律文化社1976

その他。

2008/01/29

「北欧学」の構想-北欧神話から「北欧学」へ

[Ⅰ]

  最近筆者は、自分の専門分野を問われると、「宗教哲学・北欧学」と答えることにしている。宗教の本質の哲学的解明を課題とする伝統的な「哲学」の一部門としての「宗教哲学」に比較すると、「北欧学」(nordology,nordsvetenskap)というのはいまだ明確な理念体系・方法論を有する固有の学問領域として成立してるわけではない。それだけに、自分の専門分野の一つとして、そのような耳慣れない未成熟な学名を挙げるのはどうかと躊躇する思いもないわけではないが、それにもかかわらずやはり「北欧学」なるものを一定の方法論に支えられた具体的な一学問体系として独立させたいという密かな願いを抱いている筆者としては、将来における「北欧学」確立への願望を込めて、敢えて「北欧学専攻者」を名乗っているわけである。なお「北欧学」の体系構造と方法論についての筆者の暫定的な見解は後に述べることにする。そして、この点と関連して敢えて言わせて頂けるなら、筆者の本来の研究分野である「宗教哲学」も、このようにいまだ未開拓の学としての「北欧学」と称するものの構想内容と密接に結びついており、さらにはこの「北欧学」の構想にとって基幹的意味を有するのが、筆者にとっては「北欧神話」に他ならないののである。

  『ユリイカ』編集部から求められたのは「北欧神話」そのものについて一筆ということであったが、筆者が「北欧神話」から「北欧学」の構築を意図するにいたった経緯に触れることで、御要望に応えさせて頂ければと考える。

  鈴木大拙の著書を通して筆者が最初に知った北欧の思想家は、スウェーデンの神秘主義者E.スエェーデンボルイ(1688 - 1772)であるが、筆者の学生時代に支配的だった哲学思潮が実存主義であったことにも影響されて、学部及び大学院で取り上げたのは隣国デンマークのS・キェルケゴール(1813 - 1855)であった。ところが 、彼の探索を継続してゆく中で改めて気づいた奇妙な事実は、通俗的には「北欧の生んだ孤独憂愁の哲人」と称されながら、デンマーク本国を含め内外のキェルケゴール研究の中に、彼を厳密に北欧デンマークの思想家として積極的に把握しようとする方向が垣間見られないということであった。そして、このような否定的な状況はその後若干改善された兆しがないわけではないが、キェルケゴールを「国籍不明の思想家」に還元しかねない曖昧な研究姿勢・方向は、現在に到るも大きな進展は遂げてはいないように思われる。いったいキェルケゴールがデンマークという北欧の自然的・思想的風土の中に生誕し成長したという事実は、彼にとってはいかなる積極的な意味をも持ちえないのか、もし持ちうるとすれば彼を北欧デンマークの思想家たらしめている固有の特性,彼の思想体系を貫く真に北欧的な要素、いわば彼における「北欧的なもの」(det nordiske)とは何なのか、こういった疑念に駆られると同時に、改めてこの「北欧的なもの」自体が何なのか、その実体を生成の源まで遡って見極めようとして、筆者が一旦キェルケゴールの思想圏から離れて赴いた先が「北欧神話」の世界であったわけである。

[Ⅱ]                 

  「北欧神話」の解読を通して、北欧精神史乃至思想史上最初に「北欧的なもの」の実体を、「北欧民族精神」という観点から,「戦いの精神」として規定したのは,キェルケゴールと同時代の詩人・宗教家NFS・グルントヴィ(1783 - 1872)であった。彼は、「北欧神話」最大の雄編『巫女の予言』の中に、世界の終りまで決して終結することのない神族と巨人族との戦いの場面を通して、北欧人の生全体を支配・統治する基本理念が、「戦いとしての生」であり、このような「戦いとしての生」を、まさに「普遍妥当的真理」にまで高めているのが、「北欧神話」全体に他ならないと見なすのである。例えば、次のようにも言う、「北欧民族精神は神自身の霊と極めて多くの同等性を有しており、真理と虚偽、生と死、光と闇、それらの間に介在する巨大な戦いを凝視する。そしてこの戦いにおいて北欧民族精神は死とともに、死にまつわる虚偽と冷酷無情な心を克服する生の側に立つのだ」(1)。だが、同時にグルントヴィは、特に晩年においては、この「北欧民族精神」の限界をも認識していた。「北欧民族精神が夢見るもの、真理を北欧民族精神自身は実現する力がない。真理の実現はあくまでアース神の夢に留まるのである」(2)。なぜならアース神は、「ラグナロク」において没落せざるをえないからである。『巫女の予言』の最終場面に登場するこの「ラグナロク」の表象は、まさに「ragna(神々の) rok(運命・死)という語義通り、アース神が「有限的なものと同化して、有限的なものの法に服従しなければならない。彼らは自らの永遠性を喪失せざるをえない」(3)という悲劇的事態を意味するからである。だが、同時にこの表象は、グルントヴィにとっては、それがキリスト教が登場するための決定的契機としての「時の充実」であり、いわばゲルマン異教信仰が新たなキリスト教信仰に転換移行するための無制約的前提であり条件なのである。グルントヴィは、ゲルマン異教とキリスト教との関係を断絶的にではなく、あくまで相互媒介的な連続性において把握する。彼が自らの立場を「北欧的―キリスト教的立場」と称する所以がある。

  以上のような意味で、グルントヴィの場合、「北欧民族精神」「戦いの精神」としての「北欧的なもの」は、「ラグナロク」において自らの限界に到達せざるをえないゆえに、それ自体は「浄福を与えてくれるものではない」。だが、それにもかかわらずこの「北欧的なもの」が、「母国語の、民族生活の精神的な力を付与するものであって、さればわれわれ北欧人にとっては最良の教師、しかも間違いなくこの世で最も素晴らしい教師である」(4)。グルントヴィがデンマーク国教会の改革と国民教会及び国民高等学校の設立という偉業を果たしえた背景には、彼固有の「北欧的なもの」に対する熱烈な思いがある。    北欧神話全体を貫く「戦いの精神」を「北欧的なもの」の典型として把握し、この「北欧的なもの」の限界を「ラグナロク」の悲劇の中に発見したこの父の影響下、デンマークの口承伝説を収集して 巨大な業績を挙げたのが、息子のスヴェン・グルントヴィであり、さらにその高弟が北欧神話研究史上最高の古典的名著の一つ『ラグナロク論』と『ラグナロク表象の起源』を完成したデンマークの民俗学者・神話学者・文学史家アクセル・オルリック(1864 - 1917)である。今に到るもラグナロク論においてそれに匹敵する、ましてや凌駕する業績の現れていない二巻本の前著において、オルリックは「ラグナロク」表象について、グルントヴィとは異なる見解を提出している。先ずオルリックは、この表象をグローバルな視界から仔細に考察することによって、『巫女の予言』の告知するごとき巨大な宇宙論的破滅という「ラグナロク」表象は北欧の風土の中だけで孤立的に誕生したものでもなければ、かといってキリスト教的終末論に由来するものでもなく、あくまで全人類の魂の深層に通底する共通のイメージに発生源があり、より厳密には、「西方からのケルト的流れ」とタタール人やペルシァ人にまで及ぶ「東方からの流れ」という二つの流れの交差によって誕生したものが『巫女の予言』の「ラグナロク」表象であると主張する。とはいえ、そこにはこの表象の北欧的特性とも言うべきものが厳然と存在していることも歴然たる事実であって、オルリックはそれを「ラグナロク」表象が語られる際に前提乃至背景として提出される全存在の徹底的な暗さ・憂鬱さを挙げると同時に、「没落に到ることを承知している恐るべき戦いを凝視する沈着冷静な真摯」を指摘する。「運命の歩みに割って入り、倒れた父親オージンの復讐を果たす瞬間、全生涯を賭して虎視眈々と狙う沈黙のアース神ヴィーザルこそ北欧的である」、とオルリックは言う。しかし、それとともに彼は、「死の感情が極めて切迫したものであればこそ、北欧人はまた、生の火は何としても消してはならないという思いも、強烈に表現することができる」という意味において、北欧人は「復活への希望を、純粋かつ大きなスケールで抱いていた」、と見る。オルリックによれば、オージンを呑み込んだフェンリルの狼に対するヴィーザルの復讐劇は,「大きく高い犠牲を払って得た生への勝利」を物語るのであるが、とはいえヴィーザルの戦闘を語る古代北欧人の脳裏に焼き付いていたのは、「至福の新世界」ではなく、あくまで「没落の中にあってなお最高に価値あるもの―生―を堅持する不屈の力」なのである。「北欧のラグナロクの基礎資料(『巫女の予言』)においては、死の不安が力を奪おうとするまさにその瞬間に、一転して生への信仰が全力を集中しつつ、開かれた死の口を引き裂く瞬間に直面する」、とオルリックは言う。

  以上のように見てくると、いまやオルリックにとって「北欧的なもの」の何たるかが鮮明になつてくると思われる。彼は、異教信仰からキリスト教信仰への移行を必然的過程と見なすグルンドヴィのように、「北欧的なもの」の消滅的契機を「ラグナロク」の悲劇の中に見るのではなく、むしろこの悲劇的出来事自体を「北欧的なもの」の決定的な表出の場面として把握するのである。だから、実は本質的に復讐劇に他ならない巨人族と神族との全面戦争の告知する暗欝な現存在全体・世界全体の秘儀を凝視しつつ、迫り来る死の運命を泰然と受け留める「沈着冷静な真摯さ」、そして同時に再生・復活への強烈な意志、オルリックの場合、これら二面が「ラグナロク」の悲劇的状況の中で顕になる最も厳密な意味での「北欧的なもの」として了解されるのである。(なお、オルリックのラグナロク論第一部は、拙訳で『北欧神話の世界-神々の死と復活』として青土社から刊行されている。なお、文中のオルリックの発言は、本訳書249頁-257頁からである)。 

  さて、こういったオルリックのラグナロク論の強烈な影響下、やはり『巫女の予言』を最重要資料とした上で、さらに拡大された視野から各種資料・文献を駆使することによって、「北方ゲルマン人の異教的世界没落論」の徹底検証を行なったのは、『古代ゲルマン宗教史』二巻(1935 - 37)他,ゲルマン神話学・宗教史学の分野において超人的な業績を挙げたオランダの碩学ヤン・デ・フリース(1890 - 1964)である。彼は、『巫女の予言』が「真の芸術家」の手になる際立った詩編であるとしても、そこから北欧人がかつて抱いていた固有の「終末論的世界観」に対する証言を引き出すことは可能であるとして、その具体的内容を次のように明らかにしている。長さを厭わず引用することにする。

  「『巫女の予言』の詩人の意図は、当時すでに知られていた神話的なラグナロク物語を扱うことではなく、それによって彼は世界観を語ろうとしたのである。彼にとって主要な課題は、ラグナロクがどのように生起するか、いかなる諸力がいま世界の現存在を脅かしているか、未来はどのように形成されるか、ということである。ラグナロクの事象は、オージンとその息子バルドルの対立において、頂点に到達する。没落に向う古い世界は、オージンの世界である。新世界はバルドルのものである。だから、『巫女の予言』の詩人は、バルドルを罪なくして死した神と見なす。この神は前時代の堕落には与からず、復活した世界では新しい支配者として君臨する。かくて『巫女の予言』の詩は、戦いと偽り、悪徳と罪の、悪しきこの世界からの救済を求める人間の未来像を含んでいるのである。しかし、詩人の思惟の跳躍が、彼をこのような高みにまで導くということは、罪の世界に対する勝利の意識を告白させる信仰を、彼がとっくに知っているということによってのみ説明がつく。だが、それにもかかわらず、詩人はキリスト者ではない。彼は、異教信仰の中に完全な再生の力を発見できることを確信していた、敬虔な人物であった。『巫女の予言』は、二つの時代の狭間に生きる魂の感動的な告白である」(5)

  さらに、デ・フリースは、『巫女の予言』全体を貫く男性的心情の深さ、確固不動の信仰、道徳的自覚の真摯さ、よりよき世界に対する切なる憧憬と飛翔こそ、詩人を「古代ゲルマン最大の芸術家」たらしめた所以のものとしているが、こういったデ・フリースの見方が、先のオルリックのそれと軌を一にするものであることは言うまでもない。オルリックは、「ラグナロク」神話のことを、「徹底的に考え抜かれ、生き抜かれた北欧人の真摯さ」の典型的表現として受け留めるが、こういった見方を根拠に、デ・フリースはさらに、世界終末に関するさまざまな民俗的表象の結合点かつ頂点に到達したのが北欧の「ラグナロク」思想であって、ここにおいて「壮大な終末論的体系」が創造された、という結論を導くのである。そして筆者は、彼らが特徴づけるこういった「ラグナロク」理解を通して、神々と世界の崩壊の終末論的世界観という一つの思想体系にまで構築された「ラグナロク」表象の中に、まさに「北欧的なもの」のエッセンスが凝縮されていると考えるのである。

  さて、筆者がオルリックとデ・フリースの「ラグナロク」論にこだわった所以は、冒頭で述べたように、いまに到るもキェルケゴール研究の抱えるブラックホール的間隙 ― 彼における「北欧的なもの」 ― の実体を見極めるようとして北欧神話に向かい、「ラグナロク」表象に行き着いたのであるが、この表象が神話的な宇宙論や世界観の場から、実存する単独的な人間の主体的な立場へと内面化・人格化されるとき、それは独自のラディカルな実存的終末意識・破滅意識、そして強烈な再生願望へと凝縮され、かつそのようなものとして表現されることになる。そして、この意味における「北欧的なもの」の最も先鋭的な表出を、筆者は、キェルケゴールの「不安」 や「絶望」の概念に見出しうると確信している。彼の『不安の概念』及び『死に到る病』は、私見によれば、まさに現代における実存哲学的「ラグナロク」論に他ならない。彼はキリスト教思想家である以前に、より根源的に北欧人であり、固有の終末論的没落意識に貫かれた北欧の土着的思想家なのである。事実、キェルケゴールのなかんずくこれら両著と『巫女の予言』との間に、論理的・心理的側面を含む思想上の著しい類似性・近親性が存在することは、一読看取しうるであろう。もっとも、キェルケゴール自身は、北欧神話に冷笑を浴びせることによって、それに由来する「北欧的なもの」から意識的に距離を置こうとするが(6)、これにはグルントヴィやデンマークに置ける最初の本格的な「ラグナロク」論を学位論文として完成したM.J.ハムメリック(1811 - 81)への激しい対抗意識も無関係ではないであろう(7)

  ところで、オルリックやデ・フリースの所論に負いながら、「北欧的なもの」の実体を北欧神話の中に確認する作業の過程で、実は筆者は、彼らによっても『巫女の予言』の提出する北欧異教的終末論の重大な側面が看過されているという事実を発見した。それは、この終末論にとって宇宙創造論(cosmogony)の有する決定的役割に取り立てて深い関心が向けられていないということである。北欧神話では、自然原理を意味する巨人族によって精神原理としてのアース神族が創造され、そのかぎり自然原理が精神原理に絶対的に優越するという秩序が確立されている。それにもかかわらず、この宇宙論的秩序が破壊されてアース神族が自らの創造主たる巨人族の祖を殺害し、いわば自然に対する精神の破壊活動を通して宇宙が形成されたというのが、北欧神話の主張である。そして「ラグナロク」の場面で登場する全面戦争というのは、本質的に、宇宙論的秩序を転倒・破壊した精神原理たるアース神族に対する、自然原理としての巨人族の「復讐」の攻撃に他ならないのである。しかし、そうなると、アース神族の王オージンを呑み込んだフェンリル狼に対する王子ヴィーザルの「復讐」は、基本的に「復讐」に対してのさらなる「報復」ということになる。復讐に次ぐ復讐、自然原理と精神原理とのこういった壮大な宇宙論的規模の報復の連鎖する世界に未来はない。巨人族と神族、自然と精神は劫火に包まれながらともに崩壊の運命を辿るのは、そのためである。拙著『北欧神話・宇宙論の基礎構造-<巫女の予言>の秘文を解く』(1994年 白凰社)は、「ラグナロク」の北欧的終末論によって無制約的に前提とされる宇宙創造論と宇宙形態論の基本構造を解き明かしたものであり、『ディープ・エコロジーの原郷-ノルウェーの環境思想』(2006年 東海大学出版会)では、北欧ノルウェーの自然環境に発する現代の「ディープ・エコロジー」思想が、北欧神話における上記のごとき自然と精神と相互破壊的活動の理念によって先取されており、端的に言えば、古代北欧神話がある意味すでに「ディープ・エコロジー」そのものの書たりうることを示した。

[Ⅲ]                      

  キェルケゴールや北欧神話における「北欧的なもの」への関心の一方、これまで筆者が、現代の哲学がそれとの対決を抜きにして自らの存在意義を語ることができない指標的対象として考えてきたのは、宗教・福祉・医療・環境の問題であった。そして、筆者としては、これら各問題と真摯に真っ向から対峙することによって独自の透徹した思索を展開しているスウェーデン・デンマーク・ノルウェーの思想圏に向い、同時にそこに「北欧的なもの」の刻印を探るという、いわば哲学的問題と「北欧的なもの」、これら二つのものへの関心を総合するような仕方で、これまでおぼつかない歩みを続けてきた。そして、その過程で改めて痛感したことは、古代の異教的土壌で育成されたとはいえ、「北欧的なもの」の中核をなす「ラグナロク」の破滅・没落意識が、たとえ潜在的にせよ、さまざまに形状を変えながらも現代北欧思想の内部に奥深く浸透しているのではないかということであった。この点に一々言及はしていないが、何れにせよ先に紹介した北欧神話論・ノルウー環境論・スウェーデン・ウプサラ学派の宗教論と医療倫理論、デンマーク福祉論等、筆者がこれまで上梓した五冊の単著は、すべて上記二つの視点への両面的な関心が基礎になっている。そして、筆者の最もおうところの多いウプサラ学派の価値ニヒリスムは、既存の有神論的宗教哲学に「ラグナロク」を宣告することによってその解体を迫る哲学であり、

  さらに安楽死思想を中心として論じた医療倫理論はもとより、デンマークの哲学的福祉論にしても、人間の社会的状況における「ラグナロク」的事態を厳しく凝視し続けるところで初めて可能となつた、まさに「北欧的なもの」の顕在化に他ならないのである。

  しかし、北欧神話の古代から一挙に現代の北欧に飛躍して「北欧的なもの」を探ってきた筆者の目下の切実な関心事は、第一に古代北欧神話から出発して現代のラディカルな問題に到達するまでの時間的推移の中で、この「北欧的なもの」がどのように育成・認識されてきたかという、いわば「北欧的なもの」の歴史的展開の様相を一定の視座と方法論に基づいて確認し、第二にその作業を通して総合的・体系的に「北欧的なもの」の何たるか判断することを通して、暫定的に筆者が「北欧的なものに関する歴史的及び体系的研究」と定義する「北欧学」なるものを、新たに独立した学の一分野として確立することである。筆者が知るかぎり、北欧諸国においてもこの種の総合学はいまだ成立していないし、本邦では書籍やウェブ・サイト上に時折「北欧学」なる呼称が見かけられるが、その際にもこの学名が明確な定義の下に使用されている気配はなく、大雑把に北欧文化の諸側面に関する学際的な研究といった程度の、ごく一般的な意味で用いられているようである。筆者自身にしても、差し当っては上記のごとき暫定的な規定しか手にしていないのが実情であり、まして「北欧学」のさらに明確な輪郭や方向の提示、体系の具体的構造等の問題解決はすべて筆者に課せられた今後の課題である。なお、以下では、「北欧的なもの」の歴史的展開を検証しようとするに場合、筆者が常々最高の指標を提供してくれるものと評価している一つの貴重な資料に言及することで、筆者自身がどういった文化現象を具体的に「北欧学」の対象と考えているかを示唆して、この序論的考察を終ることにする。

  「北欧的なもの」の歴史的考察ということをより広義に捉え直すなら「北欧精神史」と称して差し支えないであろうが、十九世紀後半この「北欧精神史」の分野において真に先駆的かつ画期的な業績がデンマークの文化史学者カール・ローセンベーャによって齎された。著者の道半ばでの死去により完結はしなかったものの、それでも総計一七六三頁に及ぶ三巻本の『北欧人の精神生活―古代から現代まで』(8)は、「希に見る調和の取れた労作」と評価される記念碑的大著であり、これに匹敵する、ましてそれを凌駕する著作は北欧その他いかなる国にも登場していない。著者は三巻本のそれぞれにおいて異教時代・カトリック時代・前期ルター主義時代を取り上げつつ、北欧民族精神独自の特性が際立った仕方で顕現していると思われる文化現象に注目している。その中で筆者が「北欧的なもの」に対する典型的な歴史の証言として「北欧学」の視座から格別したいのは、前の二つの時代に属する次のような現象である。ローセンベーャのタームをそのまま用いる。

  異教時代―岩盤刻画とルーネ文字、異教的民族詩(エッダ神話)と異教的芸術詩(スカルド詩)

  カトリック時代―法の生成と精神、歴史記述、『ヘクセーメロン』(北欧のスコラ学)『王の鏡』(哲学的思惟)、聖女ビルギッタ『啓示』(宗教的思惟)

  最初に挙げたヨーロッパ最後の神秘主義者と言われるエマニュエル・スウェーデンボルイはローセンベーャ的な時代区分によれば「後期ルター主義時代」に属するが、上記のような理由で、ローセンベーャの記述は「前期ルター主義時代」に活躍したスウーデンボルイの父エスパー・スヴェドベルイへの言及に留まっている。スウェーデンボルイ自身については、ローセンベーャ的な時代区分では、後期ルター主義時代に属することになるが、聖女ビルギッタとともに、創世に遡って過去を回顧し、未来の出来事を幻視を通して予見するという、『巫女の予言』スタイルを継承した北欧的思想家の典型であった。 

  北欧神話に基盤を置いた「北欧学」の構築を筆者自身がどこまで進められるのかはまったく未知数であるが、この新たな学のより厳密な方法論的吟味の問題は当面留保しておいて、以下では、ローセンベーャの業績を念頭に置きながらも、それとはまったく別個に、筆者自身が「北欧学」において取り上げられるべき重要課題と考える幾つかの主題について、これまでの筆者の研究を基に考察を試みることにする。

(1)次の編著で紹介されている文、Christiansen, C.O.P. og Kjaer, Holger: Grundtvig, Norden og Goeteborg, Kbh. 1942, S.37.

(2)ibid..

(3)Grundtvig, N.F.S. : Nordens Mythologi, Kbh. 1932, S.174.

(4)(1)に同じ。

(5)de Vries,Jan: Altgermanische Religionsgeschichte, Bd.2 , 1970, S.396.

(6)この点については、以下の拙稿を参照されたい、「キェルケゴールの神話論」(『キェルケゴール研究』第221992年、24)

(7) Hammerich, Martin: Om Ragnarokmythen og dens Betydning i den oldnordiske Religion, Kbh.1836.

(8)Rosenberg, Carl: Nordboernes Aandsliv fra Oldtiden til vores Dage, Bd. 1-3, Kbh. 1878 - 85.

(『ユリイカ 特集*北欧神話の世界』第3912 [通巻541] 138144頁所収)

2008/01/05

「北欧学」の主題―[Ⅰ]ゲルマン異教からキリスト教への「改宗」

[Ⅰ]

  北欧精神史乃至北欧思想史、さらに限定的な意味で言えば北欧教会史において、文字通り「エポック・メイキングな」意味を持つ最重要課題の一つに、古代ゲルマン異教からキリスト教への転換、いわゆる「改宗」と言われる宗教的・社会的乃至政治的現象があるが、筆者の構想する「北欧学」においても、当然取り上げられるべき主題の内最たるものに属すると見なして差し支えない。問題のスケールの大きさから見て、限られたスペースで簡単に処理できるような小さなテーマではないが、以下では特にこの問題に関するエキスパート若干名の所説を参照しながら、暫定的にこの主題に接近してゆくことにする。

  一般に、質を異にする宗教間の移行、端的に「改宗」convelsio, omvendelse)と言われる現象の場合、成立の次元が個人的か民族的かの区別はともかく、そこに見出だされるのは、基本的に主体的・実存的な行為としての「改宗」であるはずである。そのかぎり、この問題は、主体的・実存的視点から取り上げられなければならないのは当然であるが、小論というスペース上の問題のみならず、時代的背景及び資料上の制約からも,個人における主体的・実存的行為としての「改宗」の考察はどうしても留保せざるをえず、結局筆者としてはここでは主たる関心対象を、結局、11世紀前後における北方ゲルマン「民族」の改宗史の抱える問題に限定することになる。


  ここで「北欧民族」として想定しているのはなかんずくデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アイスランド四国に帰属する民族のことであるが、彼らのゲルマン宗教からキリスト教への改宗という歴史的事実に関して一つの指標を提供するのはアイスランドの場合である。というのも、この国では丁度1000年に全島大会Alltingにおいてキリスト教への改宗が法的に許可されるが、デンマークとノルウェーのキリスト教化はそれ以前、スウェーデンの場合はそれ以後に属するという仕方で、前後に約300年間の落差はあるものの、北欧四国の改宗はほぼこの時代に集中しており、このことが四つの北欧民族における改宗に共通する特質を付与する要因にもなっているのである。そして、彼らの改宗に共通するこの特質こそ、彼らの「比較思想的行為としての改宗」を決定的に特徴づけているものであり、それの発見と指摘が筆者の意図するところでもある。

[Ⅱ]

  そのために、筆者は先ず、アイスランドを中心とした改宗への「外的経過」を簡単に窺うことによって、外から見た北方ゲルマン民族における改宗の一般的特質をあぶり出してみることにする。スカンディナヴィア諸国のこのキリスト教化について、デンマーク考古学界の権威ヨハネス・ブレンステーズは、このように述べている。

  「(スカンディナヴィア諸国への)キリスト教の浸透は急速なものではなかった。ヴァイキング時代の始まる800年頃の北欧はまったくの異教世界で、デンマークの改宗までは約150年、ノルウェーとアイスランドでは約200年を要し、スゥーデンが完全にキリスト教化されるまでは300年以上が経過した。この穏やかな慈悲と苦難の宗教がヴァイキングをどのようにして征服することができたかを問うよりも、改宗にこれほど長時間を要したことの方にむしろ驚く理由がある。というのも一方は多彩な神々の王国ではあっても、実際にはそれほど強力ではなかったのに対し、もう一方はローマ教会の巨大な組織を背景に浸透の試みを不断に繰り返し、手始めに王や首長ら北欧社会の上層階級を懐柔するという巧妙な戦術を所有していたからである。だが、改宗にかなりの時間を要した理由とは、北欧古来の宗教に秘められていた力が、代々継承されてきた祭祀、つまり一年の歩みや生命の豊饒さや収穫と不可分に結び付いた祭祀形態の中に宿っていたことであろう。上層階級に対する改宗はほぼ順調に行ったが、この新しく強力な唯一神が社会に根付く過程で、それまでヴァイキングの現世生活の要求と存在を確かなものとし、あらゆる時代の経験を備えた古来の宗教の風俗習慣が侵害されようとした時、始めて事態は深刻となった。この領域における転向・改宗が実に長い歳月を必要としなければならなかった」(1)

  スウェーデンの宗教史家フォルケ・ストレームも、ヴァイキング時代多数の北欧人が海外でキリスト教と直に接触し、新しい思想を携えて帰国したものの、全般的にはこの地域に定住していた農民人口が父祖伝来の信仰を頑固に固持するという仕方で、宗教と社会生活との間に存在する強い結び付きのために、当時の北欧においてはキリスト教は根本的に社会の下層階級の運動にはならず、この地のキリスト教伝道は、宗教や法秩序の支柱、つまり王や権力者に向かったところにその特質が存在することを指摘している(2)。そして、フォルケ・ストレームは、ブレンステーズの上記引用文において指摘する、豊かな時代的経験を有する古来の宗教の風俗習慣が侵害される基本的な場面として、社会全体にとって重要な意義を有する公的な祭祀の維持者(王・権力者)が、もはや自らの伝統的な祭式機能を発揮しなくなって、国民大衆が個別的に執り行なう屋敷内の祭祀が単独では埋めることができない宗教的な真空状態の発生ということを挙げている。インターナショナルな志向性を有するキリスト教徒の王の権力と、村落に根付く古い宗教を奉ずる農民の勢力との間に、たとえ一時的に激烈な闘争があったり、ゲルマン異教からの反動が短期間成功を収めることがあったとしても、結果は始めから明らかであったのである。

  デンマークの著名な宗教史家ヴィルヘルム・グレンベックの、スカンディナヴィア諸国における改宗過程の特質に関する以下のごとき発言も、このような歴史的事情を踏まえてのことである。

  「(スカンディナヴィア諸国においては)全体として見ると、それほど深刻な格闘なしに行われた。このような精神革命が若干の抵抗を伴うのは当然のことであった。実際、オーラフ一世トリュグヴァソンOlav Trygvason 995 - 1000)や聖オーラフ二世Olav den Helige 1015 - 30のように改宗に熱心だった王と国民との間に、かなりの摩擦があったことが知られており、特に前者は乱暴な方法を用いたために、彼らの不満を相当掻き立て、この国の各地で大きな抵抗運動が発生した結果、あちこちで古い信仰への殉死者が出たのであった。しかし、南の方角から勝利を収めつつ突進してきた宗教については、厳密な意味での戦いについてはまったく問題にならなかった。その移行がどんなに容易に行われたか、その証しはアイスランドにおいて発見することができる」(3)

  特に以上デンマーク及びスウェーデンの代表的な三人の研究者ブレンステーズ、ストレーム、グレンベックの所論を総合してみると、

 1)オーラフ・トリュグヴァソン治下のノルウェーのように若干の場合は例外として、また新宗教勢力と旧宗教勢力との間で後者への殉教者の発生を交えた短期間若干の信仰闘争が発生したとしても、北欧の場合、アイスランドにおいて典型的に見られるように、ゲルマン異教からキリスト教への転換は自明的な仕方で比較的平穏裏に行われた。

  2)その反面、アイスランドの1000年を挟み、スカンディナヴィアの他の三国のキリスト教化が、その前後に300年という長期間を要した理由は、次の点にある。つまり、ローマ教会の懐柔策に嵌まって最初に改宗した王や首長といった権力者が、国民を啓蒙するという仕方でキリスト教化を謀ったものの、伝統社会を支えてきた異教の公的祭祀の主催者としての役割を放棄することによって、国民の間に一種の精神的な真空状態もたらした権力者にとっては、当の国民大衆の伝統と日常生活の中に深く織り込まれた伝統的な異教祭祀を、慈悲と苦難の新宗教へ一気に、かつ短期間に移行させることは不可能であったということである。しかし、北欧人にとっては、この移行・改宗の運動自体は、もはや避けられない必然的運命であった。

  ブレンステーズはまた、以上の事態を踏まえて、「全島民の同時改宗という、他に類例のないこの奇妙な方法自体、すでに島内的には改宗の機が熟していたことを証明している。古来の宗教は、アイスランドでは早くも無力化していた」、とも述べているが、これは、「社会生活と法と宗教との間の不可分な結びつきをめぐる洞察が、異教の運命を確かなものにすることになった」(フォルケ・ストレーム)、という意味に理解しなければならない。そして、このことはまた、アイスランドにおけるゲルマン異教からキリスト教への転回は、前後裁断的・二者択一的な決断の行為とは言い難く、むしろドイツの宗教史家アドルフ・ヘルテがその著『ゲルマン精神とキリスト教の遭遇』の中で提出している、「『エッダ』や『サガ』の故郷アイスランドでは、異教は原則的には排除され、改宗は遂行されたものの、改宗は国民にとってはもとより心の問題ではなく、所詮はまったくの外面的な事象にすぎず、異教に託されたこの留保の姿勢こそ、この島におけるキリスト教への移行を本質的に特徴づけるものである」(3)、という見解こそが、この北欧ゲルマン民族の改宗の真相を突いていると見なすことができよう。もっとも彼も、オーラフ・二世聖王が1016年に異教に対する一切の譲歩排除を命令して以後、漸次異教が消滅してゆき、アイスランド人の中にキリスト教的思惟と感情が根付いていったことを認めてはいる。

[Ⅲ]

  しかしながら、アイスランドにおける改宗のこのような特質を知る時、筆者としては、ドイツの著名なゲルマン宗教史学者ヴァルター・ベトケが提示した、以下のごとき主張に特別注目せざるをえないであろう。

  「当然、異教の抵抗力が、新しい信仰の受容に対して影響がないはずはなかった。スカンディナヴィア諸国では、ドイツの場合同様、キリスト教の容認にはさまざまな強制力が用いられ、かくて移行期間には<ゲルマン的ーキリスト教的シンクレティズム(混合主義)ein germanisch - christlicher Synkretismus)が展開されたのである。この<シンクレティズム>は確かに部分的にはその後克服されはしたが、しかしまた一部はさらに強化されて、結果的には<大規模なキリスト教のゲルマン化>をもたらすことになるのである。もしキリスト教の内面的獲得を問うのであれば、この混合-変形過程の在り方と範囲を確認することが重要になる」(5)

  アイスランドにおける改宗は、全島会議の議決に基づく政治的配慮の結果でもあったが、ベトケは、このような便宜的方策のみならず、ドイツ同様スカンディナヴィア諸国においても、ゲルマン異教徒の抵抗を押さえるために、彼らの改宗にさまざまな仕方で強制力が用いられたことが、結果的に「ゲルマン的要素とキリスト教的要素との混合形態」という意味での「シンクレティズム」が、古代北欧民族の改宗を特徴づけることになったと考えており、さらにこの「シンクレティズム」がある程度克服された後には、よりラディカルに「大規模なキリスト教のゲルマン化」が発生したと主張しているのであるが、ベトケのこのような所見は、北欧人における比較思想的行為としての改宗を考察しようとする筆者にとっては、極めて示唆に富む発言であり、以下における筆者の記述は、結局基本的には、ベトケの指摘する北欧人の改宗における「ゲルマン的なもの」と「キリスト教的なもの」との「シンクレティズム」、「キリスト教のゲルマン化」という「混合-変形過程」論の吟味に向かわざるをえないであろう。

[Ⅳ]                

  ベトケは、すでに指摘した「政治宗教」としてゲルマン宗教の理念がキリスト教に転換された結果、改宗に際してキリストが政治共同体の平和が託された民族の、国家の神として把握され、古いゲルマン異教に代わって政治的な自己主張のためにキリスト教が用いられるところに、このような「シンクレティズム」の発生原因を看取している。北欧に限定されず、ゲルマン世界全体に共通すると見なすこの現象を綿密に検証しつつ、彼はさらにこんなふうに考えている。本来はゲルマン異教の主神オージンOdinnWodan南ゲルマン民族])の別名「勝利の神、勝利の主」SiegesgottSiegesherrといった古い表象がキリストに移され、「このような勝利の神として賛美することによって、異教ゲルマン精神によるキリストの神話化と政治化とが結びついているのは歴然たる事実であって」(6)、「キリスト像の政治化と神話化の認識がまさしく改宗史にとっては最大の意義を有する」のである。なぜなら、「この認識が始めて文献資料の妥当な解読の前提となる」からである。かくて、ベトケによれば、本来は完全に区別されるべき「ゲルマン的-神話的地層」と「キリスト教的-神学的地層」でありながら(7)、前者が後者に移行・転換される仕方で両契機が共存するところに「シンクレティズム」のみならず、「キリスト教のゲルマン化」の現象が生起するのである。なお、その際ペトケは、改宗期の「ゲルマン初期キリスト教」の資料から「ゲルマン異教」への「逆推理」を行って、福音に対する素因をゲルマン人がすでに改宗前に所有しており、「異教信仰自体の中にキリスト教に到る素因の充足・完成」を見るような転倒行為を行ってはならないことを厳しく注意している。

  もっとも、ベトケは否定するのであるが、C.M.クサック女史は、ゲルマン民族改宗史に関する最新の文献でもある彼女のシドニー大学宗教学学位論文『ゲルマン民族の改宗』において、アイスランド人の初期キリスト教が、他のゲルマン民族のそれ同様「混合主義的」たる所以を、全島会議の結果として古い宗教が公的には差し止められたにもかかわらず、私的にはなお暫時生贄の慣習が守られた事実の中に指摘し、アイスランドに強力な中央集権が存在せず、また信仰箇条も教義も有しなかったというゲルマン異教の特性が、この宗教の残存とキリスト教のルーズな受容と解釈を可能ならしめたと見ている。なお、クサック女史は、このような「シンクレティズム」は、同時代のアイスランド民衆の中に発見しうるのみならず、さらにキリスト教徒としてスノリ・ストゥルルソン(Snorri Sturluson c.1179 - 1241)がゲルマン宗教に深い関心を寄せることによって成立した『新エッダ』(c.1220)が「シンクレティズム」の色彩を色濃く湛えているのは当然として、さらに『古エッダ』において生贄の樹にわれとわが身をぶら下げたオージンの像と十字架上のイエス像を重ね合わせ、さらに善と光の神バルドルとキリストとをダブらせることによって、そこにゲルマン異教における「シンクレティズム」の存在を見ようとする一部の研究者の試みに留意しつつも、これらのイメージの創造にキリスト教の影響があったとは考えられないとしてとして、こういった試みには懐疑的である。しかし、彼女によれば、中世ヨーロツパ文学中最高傑作と称えられる『古エッダ』冒頭の詩編『巫女の予言』Voluspaa=Volva + spaa[予言])の場合事情がまったく異なるという観点から、特にこの詩編の後半のラグナロクの場面に登場する宇宙の「破滅」と「復活」の場面を根拠として、異教的・ゲルマン的な価値観とキリスト教的価値観との混合という「シンクレティズム」が,さまざまなゲルマン民族における「改宗」の当然の帰結を実証していると主張している。

[Ⅴ]

  ゲルマン宗教研究史上最高の碩学とも呼ぶべきオランダのヤン・ドゥ・フリースは、『古代ゲルマン宗教史』において、「当時の北欧民族は純粋に異教的でもまたキリスト教的でもなかった。これら二つの信仰表象の結合が独自の混合形態に導いたことは間違いない」(8)、と語ることによって、ベトケやクサック同様北欧民族における改宗を「シンクレティズム」によって特徴づけている。この点をフリースは、改宗期には古い習慣はそれがキリスト教の要請に適用される場合にのみ維持できたのであり、異教的なものが漸次形式のみになって、内容はキリスト教的なものによって満たされるという「混合形態」という意味での「シンクレティズム」としても把握している。そして、この混合形態の特徴は、相互に異質的な要素が外面的に併存しているとか、キリスト教的なものが異教的な迷信にくっついているといったことにあるのではない。アクセントの置き方こそ違え、異教的なものとキリスト教的なものとが同一の感情を共有しているのである。換言すれば、11世紀を中心とした北欧ゲルマン民族の改宗を決定的に特徴づけている「シンクレティズム」とは、フリースの言う、まさに「キリスト教的な感情・表象と異教的な感情・表象との合奏」なのである。「(古代北欧の)人々は何千本かの糸によって古い世界と結ばれていた。前時代は一挙には止揚されなかったのである。異教時代の詩の伝統が可能だったのは、このような異教的心情の産物に対して敵対的に背を向けないで、逆に神話的伝承を守り続けたからであり、紛い物に対するキリスト教の憎悪も、過去の遺産に対する愛情を押え付けることができなかったのである。われわれの最も重要な資料が保持されているのは、このような心の広い寛大さのお陰である」(9)。

  しかしながら、フリースは、「シンクレティズム」の内実をこのように「キリスト教な感情・表象と異教的な感情・表象との合奏」という二つの宗教の調和的関係を意味するものと解する一方では、ベトケやクサックと異なり、『巫女の予言』の詩人に対しては、この「シンクレティズム」というタームを適用していないのである。それは、なかんずく「心の中でキリスト教と異教との葛藤が激しく荒れ狂った人間」(10)として把握しているからである。しかしながら、その内実を二つの宗教の調和関係として捉えるか葛藤関係として理解するかの違いこそあれ、この点の認識を前提としさえすれば、何れの場合に対しても「シンクレティズム」のカテゴリーを適用することは不可能ではないと考えられる。

[Ⅵ]

  デンマークの宗教史学者ウィルヘルム・グレンベックによれば、北欧人にとっては、「中世の歴史というのは、いかにしてキリスト教が定着し、ますます純粋な形を取っていったかの物語ではなく、北欧民族的要素と教会的要素とが一緒に働いて、精神生活及び宗教の有機的な全体像が前進して行く方向線を作り出した、その不断の成長の物語なのである」(11)。そして、このように「北欧民族的な要素」と「教会的要素」、「ゲルマン的なもの」と「キリスト教的なもの」との共存と共働によって誕生した精神的な全体像としての「新たな一つの宗教」であるという、グレンベックのこのような理解において、「シンクレティズム」概念の内包は、その最も深遠な意味を披瀝しているといってよいであろうが、このようなグレンベックの見方は、北欧神話中最大の雄編『巫女の予言』を、まさしく「ゲルマン的なもの」と「キリスト教的なもの」との「シンクレティズム」によって成立する「一つの新しいし宗教」を告知するものという画期的な見解の中に告知されている。彼は言う、「『巫女の予言』においてわれわれは、その思想が強烈な人格的色彩で染め上げられ、それゆえ疑いもなく同時代人の平均的思想を超出する一人の詩人に遭遇する。この詩はキリスト教と異教両者の外部にある新しい宗教の記念碑と称して然るべきである。この宗教は、最も本来的な意味では恐らくただ一人の人間の中でしか生命を保っていなかったものであろう」(12)。

  かくて、一般には「シンクレティズム」なるタームをもって特徴づけられるゲルマン異教からキリスト教への改宗が、個人の最も深刻な場合、まさに「心の中でキリスト教と異教との間の葛藤が荒れ狂った」一人の単独者の苦悩に満ちた「比較思想的行為」に他ならなかったことを証明したものこそ、教養高き異教神官と推定されている『巫女の予言』の作者に他ならないのである(13)。そして、この異教神官の主体的・実存的葛藤は、審美的なものと倫理-宗教的なもの間で激しく恐れ戦いた思想家キェルケゴールの苦闘によって継承されており、さらには世俗的立場と宗教的立場との狭間を彷徨する孤独な現代人の窮境の中にも、ありありと映し出されていると言えよう。

  なお、上記「改宗」の問題に続いて、北欧神話とキェルケゴールの関係、古代ゲルマン民族における「王権」、現代北欧におけるデモクラシー論、福祉論等を「北欧学」のさらなる主題として紹介する予定である。

1Bronsted, Johannes: VikingerneKbh. 1969, s.236f..

2Strom, Folke: Nordisk Hedendom. Tro och sed i forkristen tid, Goeteborg 1967, s. 262.

 (3Groenbech, Vilhelm: Die Germanen , in: Lehrbuch der Religionsgeschichte von Chantepie de    la Saussaye, Tuebingen 1976, S.81.

4Herte, Adolf: Die Begegnung des Germanentum mit dem Christentum, Paderborn 1935, S.42.

5Baetke, Walter: Die Aufname des Christentums durch die Germanen, Darmstadt, 1959, S.25.

6ibid. S.49.

7ibid. S. 51.

8Vries, Jan de: Altgermanische Religionsgeschichte, Bd. 2, Berlin 1970. S.429.

9ibid. S. 447.

10ibid. S. 444.

11Groenbech. op. cit. S.85.

12ibid. S. 90.

13『巫女の予言』については、拙著『北欧神話・宇宙論の基礎構造ー<巫 女の予言>の秘文を解くー』白凰社1994年を参照されたい

  (本稿は次の論考に若干の修正を施したものである。「北欧民族における比較思想的行為としての改宗―ゲルマン宗教からキリスト教へ」(『比較思想研究』第29[ 20036])